北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

嘉禄二年(一二二六)四月十日
河越重員が、武蔵国留守所総検校職となる。

92 吾妻鏡 嘉禄二年四月十日条
十日甲午、河越三郎重員、武蔵国留守所総検校職被補之、是先祖秩父出羽権守以来、代々補来云々
 
93 吾妻鏡 寛喜三年四月二日条
二日戊午、河越三郎重員者、武蔵国惣検校軄也、付当職四ケ条有掌事、近来悉廃訖、仍任例可執行之由、愁申武州之間、為岩原源八経直奉行、今日被尋下留守所(1)云々
 
94 吾妻鏡 寛喜三年四月二十日条
廿日丙子、河越三郎重員本職四ヶ条事、去二日被尋下留守所、自秩父権守重綱之時、至于畠山二郎重忠、奉行来之条、符合于重員申状(2)之由、在庁散位日奉実直、同弘持、物部宗光等去十四日勘状(3)、留守代帰寂同十五日副状等到来、仍無相違可致沙汰之由云々
 
95 吾妻鏡 貞永元年十二月二十三日条
廿三日戊戌、武蔵国惣検校職并国検之時事書等、国中文書加判、及机催促加判等事、父重員讓状、河越三郎重資如先例可致沙汰之由被仰云々
 
96 吾妻鏡 建長三年五月八日条
八日丁卯、以河越修理亮重資、去貞永元年十二月廿三日任庁宣(4)、可令任武蔵国総検校職之旨、被仰出云々
〔読み下し]
92十日甲午、河越三郎重員、武蔵国留守所総検校職に補せらるる、これ先祖秩父出羽(重綱)権守以来、代々補し来たると云々
93二日戊午、河越三郎重員は、武蔵国惣検校職なり、当職に付き四ヶ条の掌事あり、近来ことごとく廃れおわんぬ、よりて例に任せ執り行うべきの由、武州(北条泰時)に愁え申すの間、岩原源八経直奉行として、今日留守所に尋ね下さると云々
94廿日丙子、河越三郎重員が本職四ヶ条の事、去んぬる二日留守所に尋ね下さる、秩父権守重綱が時より、畠山二郎重忠に至るまで奉行し来たるの条、重員が申状に符合するの由、在庁散位日奉実直・同弘持・物部宗光等が去んぬる十四日の勘状、留守代帰寂が同十五日副状等到来す、よりて相違なく沙汰致すべきの由と云々
95廿三日戊戌、武蔵国惣検校職ならびに国検の時の事書等、国中文書の加判、および机催促の加判等の事、父重員が譲状、河越三郎重資先例の如く沙汰致すべきの由、仰せらると云々
96八日丁卯、河越修理亮重資をもって、去んぬる貞永元年十二月廿三日の庁宣に任せ、武蔵国総検校職に任ぜしむべきの旨、仰せ出さると云々
〔注〕
(1)国司が在京のまま赴任しないのを遥任というが、この場合、国衙在庁で目代・在庁官人が国司・知行国主の命を受けて行政庶務を執務する役所のことをいう。院政期以後、一般化し各国に置かれた。なお、留守代とは、国司・知行国主の派遣する留守所の長たる留守目代の略
(2)申文ともいう。下位者より上位者へ出す文書
(3)勘文・勘注ともいう。朝廷・幕府等で、先例・典故等の諮問に答えて、上申する文書
(4)国司庁宣ともいう。上位者より下位者に下し与える文書形式の下文の形式で、国守が国内に下達する公文書である。多くは、遥任国守が留守所・在庁官人を指令する時に用いる。
〔解 説〕
武蔵国留守所総検校職は、同国在庁官人の最右興に位置し、秩父重綱の系統が世襲するところであった。平氏時代には、次男流の河越重頼(重綱曽孫)が任に当ったが、鎌倉幕府の成立過程で嫡男流の畠山重忠(同曽孫)が任に当り、元久二年(一二〇五)の重忠滅亡(史料77)で断絶した。ここに所載の五点の史料は、河越氏に当職が復活し世襲されたことを示すものである。史料は、この日、河越重員が当職に任じられた記事である。史料93は、五年後の寛喜三年(一二三一)、当職に伴う四か条の職掌の復活を、武蔵守北条泰時に重員が訴えたため、この先例を当国留守所に諮問したものである。史料94は、それに答えて、国衙在庁が重員申文の言い分を認める上申を提出し、これにより重員の職掌を安堵したものである。史料95は、翌貞永元年(一二三二)、重員から重資への世襲を安堵したものである。本史料で、職掌が国検の事書・国中文書加判・机催促加判という事務的なものだったことがわかる。ここでは、重忠が武蔵七党の丹・児玉両党の争いを調停したような、当国中小武士等に対する軍事指揮権が含まれていない。史料96は、その十九年後の建長三年(一二五一)、当職に重資を改めて任命したものである。 「庁宜に任せ」とあることで、史料94の安堵は、当時の武蔵守泰時のものである。以上により、武蔵国総検校職は、畠山重忠の断絶後、この年に河越氏に復活したが、かつての中小武士への指揮権を失い、事務的職掌を残す名目的なものとして世襲されていったことがわかる。したがって、北条氏の当国支配の実権に変動はない。なお、当職を世襲した河越氏は、重頼の三男重員流で代々三郎を名乗る。

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