北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

延応元年(一二三九)
安達義景が、評定衆に加わる。

99 関東評定衆伝(1) 延応元年条 〔群書類従〕
延応元年己亥 十一月廿六日将軍若君(頼嗣)誕生、母儀大宮局、中納言親能卿息女也、
(前略)
  評定衆
(中略)
秋田城介藤原義景、々加
(後略)
〔読み下し]
99 略
〔注〕
(1)嘉禄元年(一二二五)から弘安七年(一二八四)まで、年次毎に執権・連署・評定衆・引付衆の任免・略歴等を記したもので、成立年代・著者とも不詳。二巻。
〔解 説〕
本史料は、安達氏として初めて、義景が評定衆に任命されたことを伝えるのである。評定衆は、幕府の最高政務機関の評定所の正員であり、執権・連署とともに政務・裁判を合議裁決する権限をもつ。これは、尼将軍北条政子の死去により、藤原三寅(頼経)が元服して、新将軍になったのを機に、嘉禄元年十二月、正式に制度として発足したものである。北条氏一門、有力御家人、京下官人出身の吏僚がメンバーで、十数名である。武蔵国御家人では、成田氏族の中条家長が入っていたが、嘉禎二年(一二三六)に死去しており、義景は彼に替わったといえる。この後、安達氏は代々、評定衆に入り、幕府の重鎮となったのである。

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