北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

仁治二年(一二四一)十一月四日
藤原頼経は、武蔵野開発の方違として、安達義景の武蔵国鶴見別荘に渡る。

100 吾妻鏡 仁治二年十一月四日条
四日丁亥、天晴、今朝、将軍家為武蔵野開発御方違(1)、渡御于秋田城介義景武蔵国鶴見別庄、御布衣、御輿、御力者三手供奉人、着水干宿老帯野矢若輩為征矢、面々刷行粧、頗以壮観也、前武州参給、申尅着御
〔読み下し〕
100 四日丁亥、天晴る、今朝、将軍家(藤原頼経)、武蔵野開発の御方違(かたたがえ)のため、秋田城介義景が武蔵国鶴見別庄に渡り御う、御布衣・御輿・御力者三手の供奉人水干を着す、宿老は野矢を帯す、若輩は征矢(そや)たり、面々行粧を刷(かいつくろ)い、すこぶるもって壮観なり、前武州(北条泰時)参り給う、申尅着き御う
(後略)
〔注〕
(1)陰陽道の禁忌で、外出に当たって忌むべき方角を避けるため、いったん別の所に居を移すこと。平安期に公家社会で盛んとなった。
〔解 説〕
本史料は、将軍藤原頼経が武蔵野開発のための方違として、安逹義景の所領同国鶴見別荘(神奈川県横浜市鶴見区)に渡った記事である。方違には執権北条泰時以下も供奉し、別荘では盛大に弓射を楽しんだ。この武蔵野開発は、多摩川の水を引いて水田を開発するもので、将軍の沙汰として実行することになったものである。安逢景盛(義景父)の家人に鶴見平次があり、その関係で、同所が安達氏所領となったことになる。ここは、現在も東海道が通過し、鶴見川を押える要点であり、安達氏の武蔵国内の拠点であった。

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