北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

寛元三年(一二四五)八月十六日
石戸左衛門尉・足立直元らが、鶴岡八幡宮放生会の馬場儀で、十列を勤める。

101 吾妻鏡 寛元三年八月十六日条
十六戊寅、天顔快霽、鶴岡馬場之儀、殊被結構、縡已如去年、将軍家御出、供奉人同昨日、有御奉幣、昨今又有御秡晴賢候之、坊門少将清基、尾張中将為陪膳、水谷右衛門大夫重輔勤役送、此上、大納言法印隆弁、被候御加持云々、馬場之儀結構同去年、希代壮観也、入道大納言家於桟敷有御見物云々、馬場儀、神子田楽馬場等如常云々
十列(1)
 (中略)
 三番 石戸左衛門尉(2)
 四番 足立太郎左衛門尉
 (後略)
102 吾妻鏡 寛元四年八月十五日条
十五日辛丑、鶴岡放生会(3)也、将軍家有御出之儀、
行列
先陣随兵
 (中路)
 遠江右近大夫監時兼   城九郎泰盛 
 (中略)
次御後五位六位布衣下括
 (中略)
 参河守         秋田城介
 (中略)
 石戸左衛門尉      大宰次郎兵衛尉  
 (中略)
後陣随兵
 (中略)
 淡路弥四郎宗員     足立太郎左衛門尉直光
 (後略)
〔読み下し〕
101十六日戊寅、天顔快霽、鶴岡馬場の儀、殊に結構せらる、ことすでに去んぬる年の如し、将軍家(藤原頼嗣)御出、供奉人昨日に同じ、御奉幣あり、昨今また御秡あり、晴賢(安倍)これに候う、坊門少将清基(藤原)、尾張中将陪膳たり、水谷右衛門大夫重輔役送を勤む、この上、大納言法印隆弁御加持に候ぜらると云々、馬場の儀の結構去んぬる年に同じ、希代の壮観なり、入道大納言家(藤原頼経)桟敷において御見物ありと云々、馬場の儀、神子田楽、馬場等常の如しと云々
  十列(とおつら)
  (後略)
102十五日辛丑、鶴岡放生会(ほうじょうえ)なり、将軍家(藤原頼嗣)御出の儀あり
  行列
  (後略)
〔注〕
(1)公家社会で始まった馬儀の一種で、十頭が走るが、競馬のように二頭ずつ走ったのか、十頭同時に競ったのかなど、その作法は不明
(2)実名不詳 石戸氏は、足立郡石戸郷(本市石戸宿・下石戸・荒井・高尾が郷域と推定)を名字の地とするが、出身等は不詳。本市石戸宿堀之内には堀之内館跡があり、同氏の館とも推測される。
(3)仏教の殺生禁止思想に基づき魚・鳥・獣を山野に放つ儀式。寺社において八月十五日に行われ、特に岩清水八幡宮の場合は年中行事となり、朝廷の保護を受けた。幕府でも、これに準じて鶴岡八幡宮でのものは将軍が参宮し公式行事とした。儀式翌日の十六日、鶴岡八幡宮の馬場で馬芸を奉納するのも公式行事で、この参加は御家人の名誉であった。
〔解 説〕
所載のニ点の史料は、本市域に出身する石戸氏に関するものである。史料101は、鶴岡八幡宮放生会の馬場の儀において、十列を石戸左衛門尉・足立直元等が勤めた記事である。史料102は、翌年の鶴岡八幡宮放生会の記事である。将軍藤原頼嗣(頼経子)の参宮の行列で、先陣随兵(五番ー〇騎)四番に安達泰盛(義景嫡子)、将軍御後布衣衆(二九番五六騎)六番に安達義景、二五番に石戸左衛門尉、後陣随兵(五番一〇騎)三番に足立直元(遠親子)が参列している。石戸左衛門尉の史料初見であり、『吾妻鏡』では、以後、石戸氏の所見はない。武蔵国御家人で史料102に御後布衣衆として見えるのは、安達氏以外では彼のみで、安達氏ほど序列は高くないが、他の所見による足立直元の序列に比較すると、ほぼ同等といえ、中堅御家人の地位にあったといえる。石戸氏は出自が不詳で、この突然の史料所見からして、かならずしも幕府成立以前から足立郡石戸郷にいたとはいえないかも知れない。なお、史料101は直元の『吾妻鏡』での初見で、足立氏は遠親から代替りしたといえる。

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