北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

宝治元年(一二四七)十二月二十九日
幕府は京都大番役結番二十三番を定める。足立・安達氏が十番・十七番に入る。

104 吾妻鏡 宝治元年十二月二十九日条
廿九日丁未、(前略)又京都大番(1)勤仕事結番之、各面々限三箇月、可令致在洛警巡之旨、被定下之云々
 (中略)
十番 足立右衛門尉跡
 (中略)
十七番 秋田城介
 (後略)
〔読み下し〕
104 廿九日丁未、(前略)また京都大番勤仕の事、これを結番す、おのおの面々に三か月を限り、在洛警巡を致さしむべきの旨、これを定め下さると云々(略)
〔注〕
(1)大番役のこと 平安後期、朝廷(内裏)の衛士上番が衰退し、地方の新興武士に命じて交替制でこれに当たらせた。これを京都(内裏)大番役といい、鎌倉幕府もこれを受け継いで、御家人役とした。また、鎌倉の幕府警固役を鎌倉大番役といい、これも御家人役である。幕府では、守護を指揮者として国毎に御家人に賦課した。
〔解 説〕
本史料は、京都大番役の結番(順番)を二三番と定めたものである。各番毎に三か月間を勤務することになる。この十番に足立遠元跡、一七番に安逹義景が入っている。ここで、「跡」とは、跡職の略で、その遺領を継承した者達のことで、したがって、足立氏の埸合、この当時、惣領権が分割されていたことになろう。これに対して、安達氏の場合は、惣領義景が代表していたことになる。また、ここには源氏の足利義氏、下野国守護小山氏、下総国守護千葉氏、常陸国守護宍戸氏等の有力豪族が含まれている。彼等は一族を動員して、幕府の直接指令により、京都大番役を勤めたのである。しかるに、京都大番役は、幕府の指令により守護が国内の御家人を動員するのが、通例である。したがって、本史料の結番は有力御家人による特別動員体制である。これは、本年六月の宝治合戦の事後処理に関係していたことになろう。なお、武蔵国関係では中条氏が入っていた。

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