北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

弘安八年(一二八五)十一月十七日
安達泰盛一党が鎌倉に滅亡し、これに与した足立直元も滅ぶ。

107 安達泰盛乱自害者注文 〔熊谷直之氏所蔵「梵網戒本疏日珠鈔」巻第三十裏文書〕
弘安八年十一月十七日於鎌倉合戦人々自害
前陸奥入道(覚真、安逹泰盛)秋田城介(安逹宗景)
前美濃入道(海智、安逹長景)秋田夫判官入道(城大(智玄、安逹時景))
前上総守(大曽禰宗艮)大曽禰左衛門入道
伴野出羽(長泰)小笠原十郎
田中筑後五郎左衛門尉田中筑後四郎(知泰カ)
殖田又太郎入道(大江泰広)小早河三郎左衛門尉
三科蔵人和泉六郎左衛門尉(天野景村)
筑後伊賀四郎左衛門尉 (伊賀景家)同子息
葦名四郎左衛門尉同六郎
足立大郎左衛門尉(直元)武藤少卿左衛門尉(於武蔵自害)
同大宰少弐(武藤景泰有坂三郎
   □□(伊藤カ)太郎左衛門尉
上総三郎左衛門尉加賀太郎左衛門尉
同六郎三浦対馬守(頼連カ)
城七郎兵衛尉鎌田弥藤二左衛門尉
小笠原四郎城太郎左衛門尉(安逹宗顕)(於遠江自害)
城五郎左衛門入道(安逹重景)(於常陸自害)伴野三郎
同彦二郎(於信乃自害武田小河原四郎
鳴海三郎隠岐入道(道願、二階堂行景)
城三郎二郎(大室義宇カ)城左衛門太郎
秋山人々
此外、武蔵・上野御家人等自害者不及注進、先以承及許注之 (弘安八年)「同十二月二日到来」

108 保暦間記 〔群書類従〕
(前略)爾ルニ弘安ノ比ハ、藤原(安達)泰盛権政ノ仁二テ、陸奥守二成テ無並人、其故ハ相模守時宗(北条)ノ舅也ケレバ也、然ル所二、弘安七年四月四日時宗三十四歳ニシテ出家(于時法名道果号、宝光寺)同日酉時死去畢、嫡子貞時(于時左馬権頭)生年十四歳ニテ、同七月七日彼ノ跡ヲ継テ将軍ノ執権ス、泰盛彼ノ外祖ノ儀ナレバ弥憍リケリ、其比貞時ガ内官領(1)平左衛門(不知先祖人、法名果因円ィ)卜申有り、又権政ノ者ニテ有ケル上二、憍ヲ健クスル事泰盛ニモ不劣、同八年四月十八日貞時任相模守、爰二泰盛、頼綱、中悪シテ互ニ失ハントス、共二種々ノ讒言ヲ成程二、泰盛ガ嫡男秋田城介宗景卜申ケルガ、憍ノ極二ヤ、曽祖父景盛入道八右大将頼朝(源)ノ子成ケレバトテ、俄ニ源氏ニ成ケリ、其時頼綱入道折ヲ得テ、宗景ガ謀反ヲ起シテ、将軍二成ラント企テ源氏ニ成由訴フ、誠ニ左様ノ気モ有ケルニヤ、終二泰盛法師(法名覚真)子息安景(宗ィ)、弘安八年十一月十七日誅セラレケリ、兄弟一族天外(之欠)刑部卿相範、三浦対馬守(頼連)、隠岐入道(二階堂行景)、伴野出羽守(長泰)等志有ル去ルベキ侍ドモ、彼ノ方人トシテ亡ニケリ、是ヲ霜月騒動卜申ケリ、其後平左衛門入道頼綱法師(法名果円)、今ハ諍方モ無テ、一人シテ天下ノ事ヲ法リケリ
〔読み下し〕
107 弘安八年十一月十七日鎌倉において合戦の人々自害
(人名略)
この外、武蔵・上野御家人等自害は注進に及ばず、まずもって承り及ぶ許これを注す
108 略
〔注〕
(1)内管領と書く。北条氏得宗(家督)執事のことで、御内人(得宗家人)の筆頭職
〔解 説〕
執権北条泰時の時を最盛期とする執権合議体制も、得宗へと権力が集中し、執権時宗のころより得宗専制体制と称する得宗の専制化が生じてくる。この過程で、御内人が政治実権を握るようになり、御家人は外様と呼ばれたように、権力から疎外されていく。安逹泰盛(義景嫡子)は時宗の舅であり、外戚でかつ幕初からの有力御家人として、時宗を支える一方の雄であった。そして外様として唯一、権力中枢に位置していた。元寇の危機の中、弘安七年(一二八四)に時宗が死去し、嫡子貞時が執権に就任した。御内人の代表で強固な得宗専制を図る内管領平頼綱と、執権体制を理念とし惣領制を基礎に御家人保護を図る泰盛との間に対立が生じた。
ここに所載した史料は、泰盛と頼綱が鎌倉内で武力衝突し、泰盛一党が滅亡したことを示すものである。史料107は、乱後の報告状(おそらく京都への)であり、泰盛方として滅んだ主な人名が列記されている。なお、史料108『保暦間記』は、霜月騒動と呼ばれたこの乱を記述したものである。以上により、泰盛一党として滅んだ人名を見ると、同族の大曽根宗長(引付衆)、武藤景泰(同)、二階堂行景(同)、甲斐源氏の伴野長泰・足利一族の吉良満氏(越前国守護)、三浦頼連(伯耆国守護)等の守護級の有力御家人が含まれ、足立直元の名もあった。この外、安達氏の在地である武蔵国と、守護であった上野国の両国御家人が多数戦死していた。安逹氏一党の戦死者は五〇〇人に達する大規模な内乱であった。この戦乱で幕初以来の武蔵国の御家人多数が滅亡した。また、惣領家の人々が多く泰盛方に与し、庶流家が頼綱方に与する傾向もあり、この乱は、得宗権力をめぐる外様と御内人との権力闘争との一面とともに、惣領制の保持か惣・庶並立かの路線対立でもあった。ところで、足立郡地頭職を継承してきた足立氏嫡系(直元)と、同族で同郡に位置した安達氏本宗とが滅亡したことで、足立郡は大変動をうけることになる。当然、郡地頭職は得宗の手中に落ち、貞時からその子泰家へと継承されていく。かくて、幕府実権は内管領平頼綱の掌握するところとなり、以後、有力御家人による権力闘争は姿を消し、得宗専制となる。

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