北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

永仁四年(一二九六)十一月二十日
吉見義世は、謀反の科により、竜のロで斬首される。

110 鎌倉年代記裏書(1) 永仁四年条 
     〔京都大学付属図書館蔵〕
今年(永仁四) (前略)
同廿日、世間騒動、吉見孫太郎義世依謀叛被召取、良基僧正同意之間、同被召取、義世被刎首、良基配流奥州

111 保暦間記 〔群書頰従〕
(前略)永仁四年十一月廿日吉見孫太郎義世(三河守範頼四代孫、吉見三郎入道頼氏男)謀反ノ聞エ有テ召取ル、良基僧正同意ノ間遠流セラル、義世ハ竜ノ口ニテ首ヲ刎ラレ畢
(参考)
 吉見岩殿山略縁起 〔安楽寺文書〕
〇上下略 朱雀院の御宇、平の将門下総に謀叛す、当山え命じて調伏せしむ、百院百檀を設けて大黒天の法を修す、恠ひかな三足の鶏北より飛来て一院の檀上に落つ、是則悉地の相なりと、幾日ならずして将門下野の国三面之崎に亡ぶ、是故に此院書最も寂災の名を得て息障院と号し、永く 一山の首座たり、此時に百余の坊舎宏麗関左の壮観なり、其后二条院の御宇に丁(ママ)って、左馬頭源の義朝の七男、蒲の御曹子範頼、平治の乱に依て放たれて此所にあり、弱冠の頃当山に成長せり、頼朝義兵を挙るに逮んで大軍を催して加勢す、義経と同く西海に赴き軍功莫大なり、平家滅却の後頼朝昆弟を疎んじ恩賞を行はず、範頼三河の守に任ずといへども、纔に吉見の庄を領知して此地に蟄居す、里民押貴んて吉見御所と称す、範頼大信心在て所領の半を当山に寄附し、伽藍を建立す、初め十六丈三重の大塔、并東西廿五間の大講堂を建つ、其余の営造善尽し美尽せり、範頼自ら香華を秉って三宝に供養怠らず、建保五丑正月十八日卒す、行年六十四歳、長男頼定家督を相続して当山に帰依する事父に異らず、五世孫太郎義世、無双の勇士にして、永仁四年鎌倉に叛く、副元帥平の時宗大軍を発して吉見の御所に押寄責戦ふ、義世勇なりといへども勝事を得ずして戦死せり、憐むべし五代百三十余年にして吉見の御所没落せり、爾しより已来当山の繁栄漸く衰ふといへども、古より所有の庄園掠る人なく、時の守護修理を加ふれば、百余宇の殿堂類廃する事なし、
〔読み下し〕
110 今年(永仁四) (中略)
同(十一月)廿日、世間騒動す、吉見孫太郎義世、謀叛により召取らる、良基僧正同意の間、同じく召取らる、義世は首を刎ねられ、良基は奥州に配流さる
111 略
〔注〕
(1)『北条九代記』ともいう。表が寿永二年(一一八三)から正慶元年(一三三二)までの年表形式の年代記で、裏にその年の事件を記述したもの。原型は元弘元年(一三三一)頃成立し、ついで正慶元年条を増補するが、著者は不詳
〔解 説〕
このニ点の史料は、吉見義世が謀反の科で捕えられ、龍ノロ (神奈川県鎌倉市腰越)刑場で斬首となったものである。『尊卑分脈』では、源範頼(頼朝弟)→範円→二郎為頼(吉見氏を名乗る)→太郎義春→孫太郎義世と続き、義世は源姓吉見氏嫡系とある。本史料を見ても、義世の謀反の実態は不明である。しかし、彼以外に処罰された武士が記されていないことから、そう大規模なものとは考えられない。源頼朝直系が三代で消えた以上、彼はその血縁を受継ぐ有資格者である。源氏将軍への回帰は、得宗専制体制への反抗となり得る。それ故、義世は危険な存在といえよう。どちらから仕掛けたかは不確かだが、義世の謀反として事は終結した。なお、『尊卑分脈』では、本年三月に義春の謀反とする。

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