北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

元弘三年(一三三三)五月九日
近江国番場宿で六波羅探題北条仲時以下の四百余名が自害する、この中に足立長秋らが含まれている。ついで幕府が滅亡する。

113 陸波羅南北過去帳(1) 〔蓮華寺蔵〕
(題箋カ)「陸波羅南北過去帳」
敬白
   陸波羅南北過去帳事
元弘三稔(癸酉)五月七日、依京都合戦破、当君・両院関東御下向之間、同九日、於近江国馬場宿米山麓一向堂前合戦、討死自害交名、荒々注文事
越後守仲時廿八歳   桜田治部大輔入道浄心四十七歳
  (中略)
一向堂仏前自害
  (中略)
足立源五長秋     同参河又六則利三十八々
同弥六則幌二十九歳  黒田次郎左衛門尉憲満廿九々
  (中略)
惣而於当寺討死・自害人数、肆佰三拾余人、雖然分明交名不知輩者不注之云々
  (後略)

114 太平記  〔日本古典文学大系〕
巻第十・高時一門以下於東勝寺自害事
相模入道(北条高時)モ腹切(キリ)給ヘバ、城(ジヤウノ)入道(安達時顕)続(ツヅイ)テ腹ヲゾ切(キツ)タリケル、是(コレ)ヲ見テ、堂上(ダウジヤウ)ニ座ヲ列(ツラネ)タルー門・他家ノ人々、雪ノ如クナル膚(ハダエ)ヲ、推膚脱々々々(オシハダヌギオシハダヌギ)、腹ヲ切(キル)人モアリ、自(ミズカラ)頭(クビ)ヲ搔落(カキオト)ス人モアリ、思々(オモヒオモヒ)ノ最期(サイゴ)ノ体(テイ)、殊ニ由々敷(ユユシク)ゾミへタリシ、其外(ソノホカ)ノ人々ニハ、金沢(カナザハ)太夫(貞顕)入道崇顕(ソウケン)・佐介(サスケ)近江ノ前司宗直(ゼンジムネナホ)・甘名宇(アマナウ)駿河ノ守宗顕(ムネアキ)・子息駿河ノ左近太夫将監(シヤウゲン)時顕(トキアキ)・小町(コマチ)中務ノ太輔朝実(トモザネ)・常葉(トキハ)駿河ノ守範貞(ノリサダ)・名越(ナゴヤ)土佐ノ前司時元(トキモト)・摂津形部(セッツノギヤウブ)大輔(タイフ)入道(道準)・伊具(イグ)越前ノ々司宗有(ムネアリ)・城(ジヤウノ)加賀ノ前司(安達)師顕(モロアキ)・秋田(アイタ)ノ城介(ジャウノスケ)師時(モロトキ)・城ノ越前ノ守有時(アリトキ)・南部(ナンブ)右馬ノ頭(カミ)茂時(シゲトキ)・陸奥(ムツ)ノ右馬ノ助家時(イエトキ)・相模ノ右馬ノ助高基(タカモト)・武蔵ノ左近ノ大夫将監時名(トキナ)・陸奥(ムツ)ノ左近ノ将監時英(トキフサ)・桜田治部ノ太輔貞国(サダクニ)・江馬(エマ)遠江守公篤(キンアツ)・阿曽(アソ)ノ弾正少弼(セウヒツ)治時(ハルトキ)・莉田(カンタ)式部ノ大夫篤時(アツトキ)・遠江兵庫ノ助顕勝(カツアキ)・備前ノ左近ノ大夫将監政雄(マサヲ)・坂上(サカノウエ)遠江ノ守貞朝(サダトモ)・陸奥(ムツ)ノ式部ノ太輔高朝(タカトモ)・(安達)城介(ジヤウノスケ)高量(タカカズ)・同(オナジキ)式部ノ太夫(安達)顕高(アキタカ)・同(オナジキ)美濃(ミノ)ノ守高茂(タカシゲ)・秋田(アイタ)城介(ジヤウノスケ)(安達時顕) 入道延明(エンミヤウ)・明石(アカシ)長門ノ介入道忍阿(ニンア)・長崎三郎左衛門入道思元(シゲン)・隅田(スダ)次郎左衛門・摂津(セツ)ノ宮内(クナイ)ノ大輔高親(タカチカ)・同(オナジキ)左近ノ太夫将監親貞(チカサダ)、名越(ナゴヤ)ノ一族三十四人、塩田(シホダ)・赤橋・常葉(トキハ)・佐介(サスケ)ノ人々四十六人、摠(ソフ)ジテ其門(ソノモン)葉(エツ)タル人二百八十三人、我先(ワレサキ)二ト腹切(セツ)テ、屋形(ヤカタ)ニ火ヲ懸(カケ)タレバ、猛炎(ミヤウエン)昌(サカン)ニ燃上(モエアガ)リ、黒煙(クロケブリ)天ヲ掠(カスメ)タリ、庭上・門前ニ並居(ナミイ)タリケル兵(ツハモノ)共(ドモ)是(コレ)ヲ見テ、或(アルヒ)ハ自(ミズカラ)腹搔切(カキキツ)テ炎(ホノホ)ノ中へ飛入(トビイル)モアリ、或ハ父子(フシ)兄弟差違(サシチガ)へ重(カサナ)り臥(フス)モアリ、血ハ流(ナガレ)テ大地ニ溢(アフ)レ、漫々(マンマン)トシテ洪河(コウが)ノ如クナレバ、尸(カバネ)ハ行路(コウロ)ニ横(ヨコタハツ)テ累々(ルヰルヰ))タル郊原(カウゲン)ノ如シ、死骸(シガイ)ハ焼(ヤケ)テ見へネ共(ドモ)、後ニ名字ヲ尋(タズ)ヌレバ、此(コノ)一所(イツシヨ)ニテ死スル者、摠(スベ)テ八百七十余人也此外(コノホカ)門葉・恩顧(オンコ)ノ者、僧俗(ソウゾク)・男女ヲ不云(イハズ)、聞伝(キキツタへ)々々(キキツタへ)泉下(センカ)ニ恩ヲ報(ハウズ)ル人、世上ニ 促(モヨホス)ㇾ悲(カナシミ)ヲ者、遠国(エンゴク)ノ事ハイザ不ㇾ知(シラズ)、鎌倉中ヲ考(カンガフ)ルニ、摠(スベ)テ六千余人也、嗚呼(アア)此(コノ)日何(イカ)ナル日ゾヤ、 元弘三年五月二十二日卜申(マウス)二、平家九代ノ繁昌一時(イチジ)二滅亡シテ、源氏多年ノ蟄懐(チツクワイ)一朝(イツテウ)ニ開(ヒラク)ル事ヲ得タリ
〔読み下し〕
113 「陸波羅南北過去帳」
敬白
  陸波羅南北過去帳の事
元弘三稔(癸酉)五月七日、京都合戦破れるにより、当君(光厳天皇)・両院(後伏見・花園院)関東御下向の間、同九日、近江国馬場宿米山の麓一向堂前において合戦す、討死自害の交名(きょうみょう)、荒々注文の事
(中略)
そうじて当寺において討死・自害の人数、肆佰三拾余人、しかるといえども分明の交名知れざる輩(ともがら)はこれを注さずと云々
114 略
〔注〕
(1)近江国番場宿蓮華寺過去帳ともいう。滋賀県米原町番埸の蓮華寺(時宗一向派、現在は浄土宗)の三代住持同阿上人が、番場宿で自害・戦死した六波羅探題以下の幕府関係者の往生を願って書いた過去帳
〔解 説〕
大覚寺統出身の後醍醐天皇は、正中の変(一三二四)の失敗にもめげず、元弘元年(一三三一)八月に挙兵し、討幕の火は燃え上った。幕府軍の反撃で、天皇は敗退し、翌年三月、隠岐国に流罪となった。しかし、畿内近辺にゲリラ戦が執拗に展開され、幕府の大軍は翻弄された。本年三月、天皇は隠岐国を脱出した。攻守逆転し、幕府は鎌倉より名越高家(北条一門)・足利高氏らを上洛させたが、四月二十七日、山陽道へと京都を発した高家は脆くも戦死し、二十九日、山陰道を進んだ高氏は討幕の兵を起した。五月七日、京都総攻撃の結果、幕府側の京都本拠たる六波羅が陥落し、京の幕府軍は崩壊した。敗残の六波羅探題北条仲時以下は、持明院統の後光厳天皇・後伏見院・花園院を奉じて、近江国を経て鎌倉に戻ろうとした。しかし、前途を後醍醐天皇方の野伏数千に阻まれた。史料113の『過去帳』は、九日、番場宿の一向堂(蓮華寺)前で、仲時以下が自害・戦死したものである。総数四三〇人中、名の明らかな者が記してある。彼等の過半は得宗被官か北条一門の家人であった。この中に、足立源五長龝(秋)・参河又六則利・弥六則幌の足立一族がいた。彼等三人は親子兄弟で、前項の足立源左衛門入道に近い同族と考えられる。それ故、三人は得宗被官と推定され、援軍として上洛していたものであろう。なお、この歴名は、『太平記』巻第九・越後守仲時以下自害事にも、見える。
西国での六波羅の壊滅と時を同じくして、八日、上野国で新田義貞(足利氏とともに源義家の子、義国の後裔)が蜂起し、九日、武蔵国へ南下した。镰倉街道上の道を南に進む新田軍は、小手指原(所沢市)・久米川(東京都東村山市)・分倍河原(同府中市)で幕府軍と合戦し、十八日、鎌倉攻撃を開始した。二十二日、稲村ケ崎より新田義貞が突入したのを転機に防衛線は崩れ、鎌倉内で最後の戦闘がおこなわれた。史料114の『太平記』は、得宗の高時(貞時子)以下が東勝寺(北条泰時が建立した禅寺で、鎌倉市小町三丁目にあった。)で自害した記事である。一門二八三人、総勢八七〇人であった。ここに、北条一族郎等は血の海の中に消え、鎌倉幕府は滅亡した。この中に、安達氏として、高時の舅時顕(泰盛弟の顕盛の孫)・高景・顕高父子、時顕、又従兄弟の師顕・高茂等が含まれていた。霜月騒動で辛うじて生残った安逢氏庶流は、得宗の姻戚として、幕府滅亡に殉じたのである。

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