北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

元弘三年(一三三三)五月二十四日
足利高氏は、吉見円忠に伊勢の凶徒退治を命ずる。

115 足利殿御教書(1)并吉見(円忠)殿施行案(2) 〔光明寺残篇(3)〕
伊勢国凶徒対治事、事書一通進之候、守此旨、可令致沙汰給候、恐々謹言
  元弘三年五月廿四日   前治(足利)部大輔高氏 御判謹上 吉見(4)殿
伊勢国可令対治凶徒由事、今月廿四日御教書案文遣之、守御事書之旨、可致其沙汰、来月三日以前、小河可令馳参給候、於緩怠之儀者、関東同心(5)之由、可令注申也、仍執達如件、
  元弘三年五月卅日    円忠(吉見)判
  三重郡地頭御家人中
〔読み下し〕
115 伊勢の国の凶徒対治の事、事書一通進らせ候、此の旨を守り沙汰致さしめ給うべく候、恐々謹言、
伊勢の国の凶徒対治せしむべき由の事、今月廿四日の御教書の案文これを遣わし、御事書の旨を守り、その沙汰を致すべし、来月三日以前、小河馳せ参らしめ給うべく候、緩怠の儀に於ては関東同心の由、注申せしむべきなり、仍って執達件の如し
〔注〕
(1)足利高(尊)氏が発した御教書
(2)吉見円忠が発した施行状、施行状は、上命を下達させるために出される文書をいう。
(3)別名「結城氏軍忠日記」「元弘日記」ともいう。一巻、鎌倉期末から建武新政初期の動向を示す重要史料、三重県伊勢市の光明寺に伝来する。
(4)吉見円忠のこと、範頼の曽孫頼源の子か
(5)鎌倉幕府方に味方すること
〔解 説〕
元弘三年三月、後醍醐天皇の討幕運動に動揺した北条高時は、京都六波羅救援のために一門の名越高家と足利高氏を救援軍として派遣した。しかし、高氏は天皇の討幕勅命をうけて、四月二十九日に丹波国篠村八幡宮で源氏再興の願文を捧げ、反幕の兵を挙げた。そして二十七日には近国の中小武士へ、二十九日には九州の有力武士へ軍勢催促状を発し、同志を率いて五月七日には六波羅を攻略した。一方、鎌倉幕府は新田義貞等の攻略によって五月二十二日に波亡した。しかし、その後も幕府の残党が各地で抵抗の兵を起し、天皇側の軍と対立した。
本史料は、伊勢国における幕府の残党退治のために、足利高氏が伊勢の守護吉見円忠に対し凶徒退治を指示し、それをうけて円忠が伊勢国の地頭・御家人に挙兵を促がしたものである。従って円忠は足利高氏に従って行動したのであり、建武二年(一三三五)には、円忠の子の範景が尊氏側として新政府に反旗を翻している(佐藤進一『室町幕府守護制度の研究』)。円忠は伊勢吉見氏の同族で、吉見系図では源範頼の曽孫頼源の子と見られるが、明らかでない。

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