北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

治承四年(一一八〇)十月八日
足立遠元は、足立郡郷の領掌を、源頼朝から安堵される。

53 吾妻鏡 治承四年十月八日条
八日丁亥、足立右馬允遠元、日者有労之上、応最前召、参上之間、領掌郡郷事不可有違失之旨、被仰云々
〔読み下し〕
53 八日丁亥、足立右馬允遠元、日ごろ労あるの上、最前の召に応じ、参上の間、領掌する郡郷の事、違失あるべからざるの旨、仰せらるると云々
〔解 説〕
本史料は、源頼朝が足立遠元に足立郡郷の領掌を安堵した記事である。平治の乱で、緒戦に右馬允に任じられる等、遠元は義朝方として活躍が著しかった。したがって、彼の本貫である足立郡に関する職掌は、平氏に没収されたと思われる。賴朝が「領掌する郡郷」を安堵したのは、彼の旧権能を回復させたことになる。もちろん、頼朝の行為は、前項での留守所惣検校職交替と同様、武蔵国の平氏勢力を追放し、実力で国衙を掌握した結果であって、国衙や京都政権の承認を得たものではない。
遠元の権能は、足立氏が足立郡司の系譜を引くことから、足立郡司職(郡地頭職)といえる。すなわち、足立氏の根本所職は足立郡司職であり、頼朝は遠元に本領安堵をしたのである。『吾妻鏡』における頼朝の本領安堵記事は、本史料が初見である。遠元の「日ごろの労」が頼朝にとって、他の武士に先駆けて功賞するほど、重視されていたことになる。なお、武蔵七党の分布を見ると、足立郡は空白に近い。それゆえ、足立郡では足立氏が最大の在地領主として一円支配に近い状態にあったといえよう。

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