北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

曆応四年・興国二年(一三四一)七月八日
武蔵国の住人吉見彦次郎が、高師冬に従って、常陸国小田城で北畠親房と対陣し、親房軍に降る。

120 法眼宣宗書状写 〔結城古文書写(1)〕
当所(2)合戦之次第、至今者、御方毎度乗勝候、凶徒(3)無勢之間、更不出逢候、御方帰本陣之時者、打出濫妨所々、御方打出之時、懸要害、不及合戦候、仍昨日も武蔵国住人吉見彦次郎(4)等降参了、先以目出候、但合戦之躰中々延々之基候之間、如此送日数候者、為御方可悪事也、其故者、神事以後方々勢可会合候歟、然者、云濫妨、云合戦、可及大義候、当城之合戦、只可為同篇之間、春日羽林(5)、被向後方了、此方々小田勢(6)幷関(7)・下妻(8)小勢、致警固也、所詮奥後措、先雖少々矢槻(9)辺へも到来候者、尤可然候、如度々被仰(10)、安否之境、可在此時候、争可致(被カ)見放申哉、相構以夜継日(11)、可令計沙汰給之由所也、恐々謹言
  七月八日    法眼宣宗(花押影)
 謹上 結城修理権大夫(12)殿
(参 考)
「関城書考」
宣宗ハ親房二従テ小田城ニ在ル者ナリ、故ニ其命ヲ受テコノ状ヲ白河二贈レリ、郷法眼卜称ス、吉見彦次郎ハ、源範頼ノ後ニテ武蔵ノ著姓ナリ、師冬(高)ニ催サレテ出陣セシニ、コレョリ後、永ク官軍ニ属シ、四位ニ叙セラレシト見エテ、新葉集ニ源頼武朝臣卜載セラレタルハ、是彦次郎ナリト云、尊卑分脈・吉見系図ニハ見エサレト、吉見氏多クハ頼ノ字ヲ以テ名字ニ冠ラセタレハ、必コノ人ナルヘシ、桜雲記ニハ、正シク彦次郎頼武卜注セリ、所拠知ルへカラサレトモ、姑ラク一証トスへシ、分脈、系図等ニハ彦三郎頼宗・彦四郎頼氏・彦五郎頼房ナト云ハ見ユレトモ、彦次郎頼武卜云へルハ脱セリ、又孫太郎義世ノ子ニ、中務大輔尊頼卜云ヲ載セテ、後、義宗ニ更ム、南方ニ参候スト注セリ、又新葉集ニハ、源頼為卜云ヘルヲモ載ラレタリ、コレハ分脈、系図等ニ彦三郎頼宗ノ二男又三郎頼為トアル者ナルヘシ、コレ等ニヨレハ、吉見氏ノ人、南山ニ候セシ者ハ、一人ニアラスト見エタリ
〔読み下し〕
120 当所合戦の次第、今に至りては御方毎度勝に乗り候、凶徒無勢の間さらに出逢わず候、御方本陣に帰るの時は、打ち出で所々に濫妨し、御方打ち出づるの時、要害に懸かり、合戦に及ばず候、よって昨日も武蔵国住人吉見彦次郎等降参しおわんぬ、まずもって目出候、但し合戦の体(てい)なかなか延々の基(もとい)候の間、かくの如く日数を送り候わば、御方がため悪かるべき事なり、その故は、神事以後かたがたの勢会合すべて候か、しからば、濫妨といい、合戦といい、大義に及ぶべく候、当城の合戦、只同篇たるべきの間、春日羽林、後方に向かわれおわんぬ、この方々小田勢ならびに関・下妻小勢、警固を致すなり、所詮奥の後措、まず少々といえども矢槻辺へも到着候わば、もっともしかるべく候、度々の如く仰せられ、安否の境、この時にあるべく候、いかでか見放し申さるべけんや、相構えて夜をもって日に継ぎ、計らい沙汰せしめ給うべきの由のところなり、恐々謹言
〔注〕
(1)東京都千代田区永田町一ノ一〇ノ一 国立国会図書館蔵
(2)北畠親房がいた常陸国小田城(茨城県つくば市)周辺
(3)高師冬が率いる鎌倉府軍
(4)清和源氏の一族で、源頼朝の弟範頼から始まるという。範頼は比企氏の庇護のもと武蔵国吉見(比企郡吉見町)で成長し、吉見冠者とも蒲冠者とも称したという。この子孫は鎌倉幕府御家人として活動している。
(5)春日顕国のこと 系譜には諸説があるが、村上源氏源顕行の子というのが有力である。北畠親房の東国入りに従い関東で活動したが、康永三年(一三四四)三月八日に鎌倉府軍に捕えられている(「鶴岡社務記録」)。
(6)小田治久の軍勢
(7)関宗祐
(8)下妻政泰
(9)福島県東白川郡棚倉町
(10)北畠親房の申すこと
(11)夜をもって日につぐ 大至急ということ
(12)結城親朝
〔解 説〕
この史料は、常陸小田城に入り反足利活動を開始した北畠親房が、この地方においてもっともたのみとした結城親朝に送った手紙である。
それによれば、親房がいた小田城周辺での合戦は、親房らが東国に来た当初は劣勢であったが、この時は逆に優勢となっている。高師冬以下の凶徒らの軍勢は少数であり、なかなか彼らと会うことができない。御方の軍勢が本陣に帰ると出陣してきて所々を濫妨し、御方が出陣すると、要害にひきこもり合戦を行わない。また昨日武蔵国の住人吉見彦次郎らが降参して来ている。ただし合戦を長びかせ、日数を送らせるのは御方にとって得策ではない。したがって春日顕国を師冬軍の後ろに廻したため、こちらは小田・関・下妻らの小勢で警固している。奥州の援軍が矢槻あたりに到来すれば、師冬軍に対して恐怖の存在になることはまちがいないことであることから、親朝も急いで出陣して欲しいというものである。
高師冬による北畠親房らの追討は、この当時の鎌倉府内での政治の主導権をめぐりもう一方の関東管領上杉憲顕との対立の結果、憲顕とその与党の協力が得られなかったこともあって、なかなか進まなかった。師冬の軍勢の中心となったのは、師冬の被官たちと守護国であった武蔵国の武士たちのみであり、師冬らの戦力の劣勢は、この史料にも「凶徒無勢」とある如く、かっこうの宣伝材料となっていたと思われる。この状況に変化があらわれるのは、暦応(りゃくおう)四年(一三四一)以降、すなわち高師直が足利直義にかわり幕府政治の主導権を掌握したのちであり、以降師直らの積極的な援助が行われた結果、親房は康永二年(一三四三)十一月に吉野に逃げ帰り、東国における南朝軍の活動はおわっている。
このなかに吉見彦次郎という名がみえるが、「参考」として掲載した『関城書考』は、源範頼の子孫である武蔵吉見氏の出身と推測している。そのような可能性はあったとは思われるが、これ以外に確かな史料がないことから、参考としてあげておいた。

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