北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

康永二年・興国四年(一三四三)十一月二十六日
加賀国大野庄元代官足立厳阿は、大野庄と倉月庄との堺相論についての返答書を大野庄政所に提出する。

121 沙弥厳阿書状案 〔天龍寺文書(1)〕
遷代御代官足立三郎左衛門入道厳阿(2)方へ自大野庄(3)堺様被尋遣書状返事
倉月庄(4)与大野庄河海堺之間事、川者限青崎橋(5)海者限靑塚、自大野庄進退候條知行之時無相違候、此間之事、委細旨令申御使候了、恐々謹言
 康永二年十一月廿六日  沙弥厳阿在判
謹上 大野庄政所殿
        御返報
〔読み下し〕
121 遷代(せんだい)御代官足立三郎左衛門入道厳阿方へ大野庄堺様より尋ね遣わさる書状の返事
倉月庄と大野庄河海堺の間の事、川は青崎橋を限り、海は青塚を限り、大野庄より進退候条、知行の時相違なく候、この間の事、委細の旨御使に申さしめ候いおわんぬ、恐々謹言
〔注〕
(1)京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場 天竜寺所蔵
(2)足立巌阿は得宗被官として活躍していた(正中二年(一三二五)九月二十四日付天龍寺文書参照)
(3)石川県金沢市内にあった天龍寺領の庄園
(4)石川県金沢市内にあり、この当時の地頭は、幕府奉行人の摂津氏であった。
(5)石川県金沢市粟崎町のあたり
〔解 説〕
この史料は、臨川寺領大野庄と摂津氏が地頭職を保有している倉月庄との堺相論(境界裁判)において、もと大野庄の代官であった足立厳阿に対して大野庄政所より境界についての問いあわせがあったことに関しての、足立巌阿の返答書である。
この両庄による堺相論がいつ頃から始まったかは不明であるが、鎌倉時代末期以降らしい(年月日未詳天龍寺文書)。そしてこの争いは室町幕府となってからも続いていたらしく、この時に足立厳阿が臨川寺側の証人として証言を求められたと思われる。結局この争いは、貞和二年(一三四六)閏九月十九日付で足利直義による裁許状が出されており、厳阿の証言が有効だったのか、臨川寺側の勝利に終っている(天竜寺文書)。

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