北本市史 資料編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 古代・中世

第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

観応三年・正平七年(一三五二)二月六日
足利尊氏は、高師業に比企郡戸守郷などを給与する。次いで八月十四日、川越宗重に戸守郷の沙汰付けを命ずる。

123 足利尊氏袖判下文 [高文書(1)]
             (花押)(2)
下 高尾張権守師業(3)
 可令早領知下野国足利庄内大窪郷(4)・生河郷(5)・戸森郷(6)・小江郷(7)事
右、為馴馬(8)・梅木・白根・高岡郷々之替、所宛行也者、早守先例可致沙汰之状如件
  正平(9)七年二月六日

124 足利尊氏御内書 [高文書]
高尾張守(10)申武蔵国ともりの郷事、無相違之様可有其沙汰
   八月十四日     (花押)(11)
  川越出羽守(12)殿
〔読み下し〕
123            (花押)
  下す 高尾張権守師業
  早く領知せしむべき下野国足利庄内大窪郷・生河郷・戸森(守)郷・小江(おえ)郷の事
 右、馴馬(8)・梅木・白根・高根郷々の替えとして、宛て行うところなりてえれば、早く先例を守り沙汰致すべきの状件の如し
124 高尾張守申す武蔵国ともりの郷の事、相違なき様その沙汰あるべきなり
〔注〕
(1)旧東京市麴町区下二番町 永井直哉氏蔵
(2)足利尊氏の花押
(3)高師直の一族であり、関東管領として活躍した師冬の兄にあたる。
    <高氏略系図>
 
     (清源寺本「高階系図」)
(4)栃木県足利市大久保町のあたり
(5)うぶかわ郷 栃木県足利市福富町のあたり
(6)比企郡川島町戸守のあたり
(7)大江郷とも書き、大里郡江南村小江川のあたり
(8)なれうま 茨城県竜ケ崎市馴馬町のあたり
(9)正平は南朝側の年号であり、北朝年号では観応三年にあたる。尊氏は、直義を追討する方策の一つとして南朝と和睦したため、観応二年十一月以降正平七年(観応三)閏二月まで「正平」年号を用いた。
(10)高師業
(11)足利尊氏の花押
(12)川越宗重
〔解 説〕
史料123は、足利尊氏が観応の擾乱における高師業の功績に対し、馴馬以下四か郷のかわりに、足利庄内の地など四か所を給与するというものである。史料124は、さきに給与した所領のうち、高師業より申し出のあった戸守郷の遵行を河越宗重に命じたものである。
足利直義と高師直との間で始まった内紛は、尊氏と直義との争いに発展し、観応二年(正平六年)八月一日には直義は京都を脱出した。しばらく北国にいたが直義派勢力が強かった鎌倉に逃れた。東国での直義派の強大化を恐れた尊氏は、その年の十一月に京都を出発し、駿河の蒲原(静岡県庵原郡浦原町)などの各所で直義軍と戦い、これを破り、直義を降伏させたのち正平七年正月五日に鎌倉に入っている。
史料123にみえる高師業は、注(3)に示した如く、師直のいとこに当り、京都にいて足利氏に仕えていたと思われるが、南宗継(注(3)系図参照)と同様、尊氏の東国下向に従ったものと思われる。そして直義との戦いが一段落した時点で、勲功があったとして尊氏より戸森郷以下四か所を給与されたのである。

<< 前のページに戻る