北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

観応三年・正平七年(一三五二)九月十八日
足利尊氏は、春日行元に勲功の賞として足立郡桶皮郷内菅谷村を給付する。

125 足利尊氏袖判下文写 〔新編武蔵国風土記稿(1)〕
       (花押影)(2)
下 春日八郎行元(3)
 可令早領知武蔵国足立郡桶皮郷内菅谷村(4)(丸七郎(5)蹟)事、
右、為勲功之賞、於雷(当カ)郷之替所宛行也者、早守先例可致沙汰之状如件
   観応三年九月十八日
〔読み下し〕
125    (花押影)
下す 春日八郎行元
 早く領知せしむべき武蔵国足立郡桶皮郷内菅谷村丸七郎蹟(跡)の事
右、勲功の賞として、雷(当)郷の替えにおいて宛て行うところなりてえれば、早く先例を守り沙汰致すべきの状件の如し
〔注〕
(1)東京都千代田区北の丸公園三ノ二 内閣文庫蔵
(2)足利尊氏の花押
(3)春日氏は、藤原北家の長良(ながら)の孫為孝より始まるとされており、鎌倉時代には御家人として『吾妻鏡』に登場している。室町幕府の初期には近習(きんじゅう)として、中期以降は奉公衆(ほうこうしゅう)としてその名がみえている。
(4)上尾市菅谷のあたり
(5)丸氏は、安房国丸御厨(千葉県安房郡丸山町のあたりにあった)を本拠地とした丸氏の一族と思われる。春日氏同様、初期には近習として、中期以降には奉公衆としてその名がみえている。
〔解 説〕
この史料は、足利尊氏が足利方として活動し功績をあげた春日行元に、恩賞として足立郡桶皮郷内菅谷村を給与するというものである。
観応二年十一月に関東に下向してきた尊氏は、直義派を破り鎌倉に入った。しかし、足利方の内乱をみた南朝方の武将が、関東の各地で蜂起した。尊氏はこれらの討伐のため鎌倉を出陣し、正平七年(北朝では観応三年のちに改元して文和元年となる)閏二月には人見原や小手指原などで南朝軍と戦いこれらを破った。春日行元は、この時の諸合戦に尊氏方として参加し功績をあげて、今回の恩賞の給与になったものと思われる。
春日氏と同様、観応の擾乱時に足立郡内の地の所有者としてあらわれるのは、春日氏・丸氏・寺岡氏・安保氏・秋山氏(安保文書・水野文書)などであり、そのいずれもが足利氏の近習または奉公衆として各史料に登場する氏族であった。この時期の足利氏における所領管理の方法として、近臣たちに諸国にある重要な所を預け置くという方策がしばしば行われていたが、足立郡内にあるこれらの所領についても同様であった。この政策は所領所職の確保と安定化をめざして行われていたものだが、関東統治における足立郡の重要性を想起すれば、当然の政治的な行動であったといえよう。

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