北本市史 資料編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 古代・中世

第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

延文元年・正平十一年(一三五六)九月
江戸房重代高泰は、入間河御陣警固の着到状を提出する。

126 江戸房重代同高泰着到状写  〔古簡雑纂〕(1)
着到
 江戸宮内少輔房重(2)代
   同六郎四郎高泰
右、八(入)間河(3)御陣警固事、為二番衆、自今月一日至于同晦日、令勤仕候畢、仍着到如件
   延文元年九月 日
       「承了、(花押影)(4)」
〔読み下し〕
126 着到
 江戸宮内少輔房重代
   同六郎四郎高泰
右、八(入)間河御陣警固の事、二番衆として今月一日より同晦日に至り、勤仕せしめ候いおわんぬ、よって着到件の如し
   延文元年九月 日
       「承りおわんぬ(花押)」
〔注〕
(1)東京都千代田区北の丸公園三ノ二 内閣文庫蔵
(2)足利尊氏の花押
(3)春日氏は、藤原北家の長良(ながら)の孫為孝より始まるとされており、鎌倉時代には御家人として『吾妻鏡』に登場している。室町幕府の初期には近習(きんじゅう)として、中期以降は奉公衆(ほうこうしゅう)としてその名がみえている。
(4)上尾市菅谷のあたり
(5)丸氏は、安房国丸御厨(千葉県安房郡丸山町のあたりにあった)を本拠地とした丸氏の一族と思われる。春日氏同様、初期には近習として、中期以降には奉公衆としてその名がみえている。
〔解 説〕
この史料は、江戸房重の代官江戸高泰が、関東公方足利基氏の入間河在陣警固のため、二番衆として九月一日より同晦日まで勤仕したことを注進したもので、奉行人の矢野政親の証判をうけている。
観応二年から文和元年にわたる尊氏派と直義派の争い、この状況をみて蜂起した南朝軍との争いのいずれにも勝利を得た尊氏は、文和二年(一三五三)七月二十九日に上洛した。上洛するにあたり尊氏は、依然として関東諸国で不穏な動きを行っている反足利勢力対策として、次男基氏を武蔵に出陣させ、畠山国淸を鎌倉に残すという方策をとった。
基氏はそれにもとづき、文和二年七月二十八日に武蔵入間河に出陣している(『鶴岡社務記録』)。基氏の入間河在陣がいつまで続いたかは不明であるが、延文四年(一三五九)十月に畠山国清が、「武蔵ノ入間河ヲ立チ上洛」(『太平記』)したとあることから、基氏はこの前後に鎌倉に戻ったものと推測される。基氏の後任には子の金王丸(後の氏満)が赴任しており、康安二年(一三六二)九月迄在陣していたことが知られている(安保文書)。

<< 前のページに戻る