北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

貞治四年・正平二十年(一三六五)十月
高坂重家は、高尾張入道常珍代行俊の謀訴をしりぞけ、比企郡戸守郷の安堵を求め訴える。

128 高坂重家陳状案  〔高文書〕
「□□(高坂)左京亮陳状(1)案 貞治四十廿四日」
高坂左京亮重家(2)謹弁申
□(欲)早被棄捐(3)高尾張入道常珍(4)代行俊無理謀訴被処其咎、任御下文・御施行・□(渡)状幷当役勤仕支証(5)状等旨、蒙御
成敗武蔵国比企郡内戸森郷事
口(副)進
 三通 御下文・御施行・渡状等案
 一巻 当役勤仕支証状等案
右、当郷者、亡父高坂肥後十郎入道専阿、為勲功之賞去平正(正平)六年十二月十二日□(致)拝領之間、御下文・御施行・渡状等明鏡(6)也、随而重家譲得之知行無相違之地也、仍当(投)□勤仕支証状炳焉(7)之上者、無予儀之処、常珍代行俊偽訴状云、彼郷者常珍去正平七年二月六日(8)雖拝領之、高坂十郎入道(今者死去)子息十郎、自正平七年押領(9)之間、雖致訴訟多年押領之、取詮(10)、此条奸謀申状也、其故者、如号自構御下文者、可令領知下野国足利庄内大窪郷・生河郷・戸森郷(比企郡)・小江郷(大里郡)云々、取詮、是則足利庄内歟、武蔵国比企郡戸森郷所給之□難備証状上者、非御沙汰限、将又如号御施行者、武蔵国戸森郷・大江(ママ)郷云々、取詮、此条希代未曽有珍事也、所詮御下文明文令入筆或除之、如此書載新儀、不可被成御施行間、首尾不相違之条、旁以不審也、正文披見之時可申子細、其上亡父専阿先年於拝領之地者、御下文・御施行・渡状等異于他上者、不可被改動(11)之条厳重也、爰常珍後年被宛行之由雖構申之、為棄破(12)御下文之間、不帯渡状致非拠(13)奸訴之条、頗比興(14)申□□(状也カ)、所存雖繁多併期問答時、
以前条々大概如件、則被棄置常珍今案監訴(15)、被行所当罪科、任御下文以下当□(知)行道理、為預御裁許、恐々披陳言上如件
  貞治四年十月 日
 〇奥裏紙継目ニ花押ノ左半分アリ。
〔読み下し〕
128 高坂左京亮重家謹しんで弁じ申す
早く高尾張入道常珍代行俊の無理の謀訴を棄捐せられ、その咎に処され、御下文・御施行・□(渡)状ならびに当役勤仕の支証状等の旨に任せ、御成敗を蒙らんと口(欲)す武蔵国比企郡内戸森郷の事、
□(副)え進む
 三通 御下文・御施行・渡状等案
 一巻 当役勤仕支証状等案
右、当郷は、亡父高坂肥後十郎入道専阿、勲功の賞として去んぬる平正(正平)六年十二月十二日拝領口 (致す)の間、御下文・御施行・渡状等明鏡なり、随って重家譲り得る知行相違なき地なり、よって当口(役)勤仕の支証状烟焉(へいえん)の上は、予儀なきの処、常珍代行俊偽りの訴状に云わく、かの郷は常珍去んぬる正平七年二月六日これを拝領すといえども、高坂十郎入道(今は死去)子息十郎、正平七年より押領するの間、訴訟を致すといえども多年これを押領す、詮(せん)を取る、この条奸謀の申状なり、その故は、号する如く自ら御下文を構えるは、領知せしむべき下野国足利庄内大窪郷・生河郷・戸森郷・小江郷と云々、詮を取る、これ則ち足利庄内か、武蔵国比企郡戸森郷を給するところの口(支)証状に備えがたきの上は、御沙汰の限りにあらず、はた又号する如きの御施行は、武蔵国戸森郷・大(小)江郷と云々詮を取る、この条希代未曽有の珍事なり、所詮御下文明文に筆を入れしめ、あるいはこれを除き、かくの如く新儀を書き載せ、御施行をならるべからざるの間、首尾相違せざるの条、かたがたもって不審なり、正文披見の時子細を申すべし、その上亡父専阿、先年拝領の地においては、御下文・御施行・渡状等他に異なる上は、改動せらるべからざるの条巌重なり、ここに常珍後年宛て行なわるの由これを構え申すといえども、御下文を棄破するの間、渡状を帯せず、非拠の奸訴を致すの条、すこぶる比興(ひきょう)の申□□ (状なり)、所存繁多といえどもあわせて問答を期す時、以前の条々大概件の如し、すなわち常珍の今案の監(濫)訴を棄て置かれ、所当の罪科を行われ、御下文以下当□(知)行の道理に任せ、御裁許に預からんがため、恐々披陳言上件の如し
〔注〕
(1)ちんじょう 被告が提出する反論の文書。最初の陳状を「初答状(しょとうじょう)」、二回目を「二答状」、三回目を三答状」といい、二答状・三答状を重陳状ともいった。
(2)高坂氏は、武蔵七党児玉党の出といわれる。この当時高坂兵部大輔氏重が伊豆国の守護に在職しているが、氏重と重家との関係は不明である。
(3)きえん 訴えをとりあげないこと
(4)高師業 常珍は師業の法名と思われる
(5)ししょう 証拠資料
(6)めいきょう はっきりしていること
(7)へいえん 明確であること
(8)史料123の文書のこと
(9)おうりょう 他人の所領を実力で奪いとること
(10)せんをとる 要約したということ
(11)かいどう 職や地位などを改めること
(12)きは 破棄すること
(13)ひきょ 不当なこと
(14)ひきょう つまらないこと
(15)濫訴(らんそ)のことで、この場合はみだりに訴えでること

〔解 説〕
この史料は、比企郡戸守郷についての高尾張入道常珍代行俊の訴えに関し、現在この地を知行している高坂重家の答弁書である。
それによれば、戸守郷は、重家亡父高坂肥後十郎入道専阿が、観応の擾乱のさいの勲功の賞として、正平六年(一三五ー)十二月十二日付で給与され、そのさいの尊氏による下文(くだしぶみ)(史料123参照)・と施行状(幕府執事である仁木頼章が出したものか)と渡状(打渡状のこと)を所有していた。したがって重家が讓りうけ現在まで知行してきており、当役(御家人役などのことか)を勤めていて証拠もはっきりして疑問のないところである。
ところが高常珍の代官行俊の訴えによれば、戸守郷は、常珍(師業)が正平七年二月六日に尊氏より拝領したが、高坂専阿の子の十郎(重家のこと)が正平七年以来押領しており、裁判を起こして永年争ったとある。しかし、この訴えは奸謀であり、常珍代行俊が提出してきた下文をみても分るように、戸守郷は足利庄内にあると書かれており、一方比企郡内にある戸守郷であるという証拠(文書など)は何もないことから、裁判をあらためて行う必要のないことである。さらに下文の文言についても、国名を入れないようなことはかつてないことであるから、常珍が持つ文書の現物をみてさらには答弁いたしましょう。いずれにしても亡父專阿が給与された戸守郷については、下文以下がはっきりしており確かであることから、裁判により所有者を改めることは絶対にすべきではない。従って常珍代行俊の不当の訴えを退け、常珍には処罰を加え、知行の由緒を示す史料を持ち、現在知行しているこの重家に、その知行を認める判決を出してくれるように望みますというものである。
中世と呼ばれる時代は、文書ですべてが行われており、その内容等については、細心の注意をはらって発給されていた。従ってこの裁判の如き争いはほとんどなく、その意味からすれば、誠に珍しい裁判であるといえよう。原告・被告ともにその論拠に用いた文書は、そのいずれもが正文であることは明白であることから、この事件の裁判にあたった関東府も苦慮したと思われる。
結局、文書においては、そのいずれもが正文である場合に は日付の新しい方を優先するのが決りであったが、今回の場合は、日付の新しい高師業の所有する文書の文言が裁判の勝敗を決したといえる。つまり、「下野国足利庄内大窪郷・生河郷・戸守郷・小江郷」とあるように、戸守郷は足利庄内にあって下野国内の地であり武蔵国内の地ではないとし、高坂氏側の勝訴(史料123にある如く、応安元年時点における戸守郷の正式な所有者は高坂重家であった)にしたと思われる。

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