北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

応安元年・正平二十三年(一三六八)七月十二日
関東公方足利金王丸(氏満)は、戸守郷を四季大般若経転読料所として鑁阿寺に寄進する。ついで関東管領上杉憲頭は、武蔵国守護上杉能憲に、戸守郷を鑁阿寺雑掌に沙汰し付けるよう命ずる。

129足利金王丸寄進状写 〔諸州古文書(1)〕
(1)寄進
  鑁阿寺(2)
  武蔵国比企郡内戸守郷(3)(高坂左京亮(4)跡)事
 右、為四季大般若経転読料所、々被寄進也者、早守先例可被致沙汰之状、依仰執達如件
  応安元年七月十二日  沙弥(5) (花押影)
 
130上杉憲顕施行状 〔鑁阿寺文書〕
(2)武蔵国比企郡内戸守郷(高坂左京亮跡)事、早守寄進状之旨、可被沙汰付下地於鑁阿寺雑掌之状、依仰執達如件
  応安元年七月十二日   沙弥  (花押)
   兵部少輔入道(6)殿
〔読み下し〕
129寄進
 鑁阿寺
  武蔵国比企郡戸守郷(高坂左京亮跡)の事
 右、四季大般若経転読料所として、寄進せらるるところなりてえれば、早く先例を守り沙汰致さるべきの状、仰せによって執達件の如し
130武蔵国比企郡内戸守郷(高坂左京亮跡)の事、早く寄進状の旨を守り、下地を鑁阿寺雜掌に沙汰付けらるべきの状、仰せによって執達件の如し
〔注〕
(1)東京都千代田区北の丸公園三ノ二 内閣文庫蔵
(2)栃木県足利市家富町にある真言宗の寺 創建は足利義兼が館の中に営んだ持仏堂に始まるといわれている。寺号は足利義兼の法名による。
(3)比企郡川島町戸守のあたり
(4)高坂重家
(5)上杉憲顕
(6)上杉能憲(法名道盞)
〔解 説〕
史料129は、関東公方足利金王丸(氏満)が、高坂重家の旧領である比企郡内戸守郷を四季大般若経転読料所として鑁阿寺に寄進するというもので、史料130は、氏満の命令を奉じた関東管領上杉憲顕(法名道昌)が、武蔵国守護の上杉能憲に同地を鑁阿寺雑掌に沙汰付けるように命じたものである。
これらの史料は、応安元年(一三六八)に起きた「武蔵平一揆の乱」に関わるものである。この乱は、観応の擾乱以来つづいていた直義派と尊氏派との争いの総決算ともいうべきものといえる。観応の擾乱をさかいに、尊氏派の畠山国清が関東管領になり、関東府は尊氏派を中心に政務がとり行われていた。しかし国清は、直義派のまき返しもあって、康安元年(一三六一)十一月に失脚している。ついで貞治二年(一三六三)三月には、上杉憲顕の関東府復帰問題が起こり、結局尊氏派の諸将が敗れ、政治の実権は憲顕を代表とする旧直義派に掌握されてしまった。このさい秩父平氏の流れをくむ河越氏・江戸氏・高坂氏らは、ほとんど目立った行動をとらなかったことから、戦い終了後河越氏は相模国守護職を解任された。これ以後、平一揆と上杉氏らとの関係は悪化の一途をたどり、平一揆は上杉氏の打倒と政治的主導権の回復をひそかに狙っていた。この時に、足利基氏の死去にともなう金王丸の継嗣、足利義詮の死去にともなう義満の継嗣ということが起こり、上杉憲顕は幼少の金王丸の名代として上洛した。この憲顕留守の好機をとらえて平一揆は上杉打倒を旗じるしに挙兵したが、憲顯のすばやい対応に加えて、味方となる武士がすくなく、たちまちのうちに攻撃され、平一揆側は敗北してしまった。この結果、高坂氏は伊豆の守護職を解任され、この史料にみえる高坂氏を含めて、一揆に加わったものの所領は没収された。
この事件をさかいに上杉氏は関東管領職を独占し、上野・武蔵・伊豆・総四か国の守護職を保有するなど、関東府内において最大の氏族に成長した。

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