北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

永和二年・天授二年(一三七六)四月二十一日
後円融天皇は、醍醐三宝院光済に綸旨を下し、京都六条八幡宮修理費用として、武蔵等五か国に棟別銭を賦課する。

132 後円融天皇綸旨 〔醍醐寺文書(1)]
六条八幡宮(2)修理要脚(3)、所被付相模・武蔵・上総・上野・越後五箇国棟別也、可令存知給之由、        
天気(4)所候也、仍執啓如件
 永和二年四月廿一日 左中弁(5)(花押)
 謹上 三宝院僧正(6)御房
〔読み下し〕
132 六条八幡宮修理要脚、相模・武蔵・上総・上野・越後五箇国の棟別を付けらるところなり、存知せしめ給うべきの由、天気候うところなり、よつて執啓件の如し
〔注〕
(1)京都市伏見区醍醐東大路町 醍醐寺蔵
(2)京都市東山区五条横東五丁目にある若宮八幡宮社のこと。もとは左女牛西洞院(さめうしにしのとういん)(現在の下京区内)にあり、六条左女牛八幡、六条左女牛若宮などとよばれた。天喜元年(一〇五三)後冷泉天皇の勅願により源頼義が勧請したといわれ、源頼朝らの厚い尊崇をうけ、とくに歴代足利将軍家の帰依をうけた。
(3)ようきゃく 必要経費のこと
(4)天皇の意志という意味で、この場合は後円融天皇の意志ということ。「天気」の前の部分が八文字空けてあるが、これは「平出(へいじゅつ)」といい、敬意をあらわすべき文字(この場合は天気)の上から改行することをいう。
(5)広橋仲光
(6)三宝院光済
〔解 説〕
この史料は、後円融天皇が六条八幡宮の別当である醍醐三宝院光済に綸旨を下し、六条八幡宮修理費用として武蔵など五か国の棟別銭をあてることを伝えたものである。
京都市東山区にある若宮八幡宮社(六条八幡宮とも六条左女牛(さめうし)八幡とも呼ばれた)は、源頼義が勧請したといわれていることから源氏一門の尊崇をうけ、源姓の足利氏も例外ではなかった。尊氏をはじめとして義詮・義満と帰依し、それにともない所領の寄進もあいついで行われた。この史料もその一環であり、当時、六条八幡宮の別当を兼務していた三宝院光済に武蔵以下五か国の棟別銭賦課を伝えたものであろう。この徴収には各国の守護がほとんどあたっており、今回の場合には、相模——三浦氏、武蔵——上杉能憲、上総——上杉朝宗(犬懸家)、上野——上杉憲春(山内家)、越後——上杉憲栄(越後上杉氏)がそれぞれにあたることになった。しかし実際には、史料に見る如く、実質的な徵収の総括を行った将軍の御教書など、他の史料にこのことに関する記載がみえないことから、棟別銭の徴収などが行われたか否かは不明である。。
なお今回棟別銭を賦課される対象国となった五か国のうち、四か国の国の守護が上杉氏であること、五か国のうち越後を除く四か国が関東府が管轄していた国であったことなどが注目される。

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