北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

康暦二年・天授六年(一三八〇)八月二十五日〜九月九日
関東公方足利氏満は、山下四郎左衛門尉・宗重孝に命じ、足立郡畔牛郷内などの地を武蔵国金陸寺雑掌へ沙汰付けする。次いで、宗重孝と重孝の代官妙源は、山下四郎左衛門尉とともに畔牛郷内の地などを金陸寺雜掌に打ち渡す。

133足利氏満御判御教書 〔円覚寺文書(1)〕
 武蔵国都筑郡石河郷(2)内大井三郎跡・足立郡畔牛郷(3)内塩田帯刀左衛門尉(4)跡等事、任今月六日寄進状之旨、宗兵庫允相共莅彼所々、沙汰付下地於金陸寺雜掌、可執進請取状、使節更不可有緩怠之状如件
  康暦二年八月廿五日   (花押)(5)
    山下四郎左衛門尉殿
 
134宗重孝打渡状 〔円覚寺文書〕
 武蔵国都筑郡石河郷内大井三郎跡・足立郡畔牛郷内塩田帯刀左衛門尉跡等事、任去月廿五日御教書(6)之旨、山下四郎左衛門尉相共莅彼所々、沙汰付下地於金陸寺雑掌候畢、仍渡状如件
  康暦二年九月八日  兵庫助(7)(花押)
 
135宗重孝代妙源打渡状 〔円覚寺文書〕
 武蔵国都筑郡石河郷内大井三郎跡・同国塩田帯刀左衛門尉跡事、任今月六日御寄進之旨(8)、山下四郎左衛門尉相共莅彼所々、沙汰付下地於金陸寺雑掌候了、仍渡状如件
  康暦二年九月九日
         宗兵庫允代妙源(花押)
〔読み下し〕
133武蔵国都筑郡石河郷内大井三郎跡・足立郡畔牛郷内塩田帯刀左衛門尉跡等の事、今月六日の寄進状の旨に任せ、宗兵庫允相共にかの所々に莅(のぞ)み、下地を金陸寺雑掌に沙汰し付け、請取状を執進すべし、使節更に緩怠あるべからざるの状件の如し
134武蔵国都筑郡石河郷内大井三郎跡・足立郡畔牛郷内塩田帯刀左衛門尉跡の事、去んぬる月二十五日の御教書の旨に任せ、山下四郎左衛門尉相共にかの所々に莅み、下地を金陸寺雑掌に沙汰付け候いおわんぬ、よって渡状件の如し
135
〔注〕
(1)神奈川県鎌倉市山ノ内 円覚寺蔵
(2)神奈川県横浜市緑区内の地
(3)上尾市畔吉のあたり
(4)北条氏一門で、北条泰時の弟重時の子義政に始まる塩田氏の子孫と思われるが、実名は不明
(5)足利氏満
(6)史料133の文書のこと
(7)宗兵庫助重孝
(8)史料133にみえるものと同じ文言であることから、今月は先月の誤りと思われるが、原本にはみえない
〔解 説〕
史料133と134は、足立郡畔牛郷に関する史料である。133は、関東公方足利氏満が山下四郎左衛門尉に足立郡畔牛郷内などの地を宗重孝と共に金陸寺雑掌に下地を沙汰付けることを命じたもので、134は足利氏満の命を奉じた宗重孝が、山下四郎左衛門尉とともに同所を金陸寺雜掌に打ち渡したもの、135は宗孝重代官の妙源が、同じく同所を山下四郎左衛門尉とともに打ち渡したというものである。
従来関東府における土地の打ち渡しは、関東公方御教書→関東管領施行状→各国守護遵行状→使節の打渡状というのが正式な形であったが、関東公方、関東管領、守護などが在職していない場合とか、政治状況の変化した場合などによつて、おのずと文書の流れに変化があった。今回の場合、関東公方が出した寄進状を、公方自身が直接武蔵国の使節二人にあてて打ち渡しを命じており、関東管領と武蔵国守護の二人を介していないことが注目される。
この文書が出された前年の康暦元年(一三七九)三月七日に、関東管領上杉憲春が諫死しており、その跡を弟の憲方が継いでいた。しかし氏満と憲方との関係は、憲春のこともあってしっくりいかず、氏満のみが政治を行う状況であったと思われる。従って上杉氏が守護職をもっていた武蔵国に対しては、氏満が直接に指名した使節に打ち渡しを命じるという方法をとった。史料133と134は、その例の一つであると思われる。この状態は、とくに武蔵国の埼玉県分についていえば、永徳三年(一三八三)四月頃までつづいていたことが指摘される。

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