北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

永徳二年・弘和二年(一三八二)三月八日
関東公方足利氏満は、比企郡戸守郷を高尾張五郎入道に還補し、須賀太郎左衛門尉と若児玉美作次郎に、同地を沙汰し付けるよう命ずる。

136足利氏満御判御教書 〔高文書〕
 武蔵国戸森郷事、所還補(1)也者、早守先例可致沙汰之状如件
  永徳二年三月八日     (花押)(2)
   高尾張五郎入道(3)殿
 
137足利氏満御判御教書 〔高文書〕
 武蔵国戸森郷事、若児玉美作次郎(4)相共莅彼所、守還補下文(5)之旨、可沙汰付下地於高尾張五郎入道之状如件
  永徳二年三月八日    (花押)
   須賀太郎左衛門尉殿
 
138足利氏満御判御教書 〔高文書〕
 武蔵国戸森郷事、須賀太郎左衛門尉相共莅彼所、守還補下文之旨、可沙汰付下地於高尾張五郎入道之状如件
  永徳二年三月八日     (花押)
   若児玉美作次郎殿
〔読み下し〕
136武蔵国戸森(守)郷の事、還補するところなりてえれば、早く先例を守り沙汰致すべきの状件の如し
137武蔵国戸森郷の事、若児玉美作次郎相共にかのところに莅み、還補の下文の旨を守り、下地を高尾張五郎入道に沙汰し付けべきの状、件の如し、
138
〔注〕
(1)げんぼ なんらかの由緒のある土地などをふたたび給与すること
(2)足利氏満の花押
(3)高師業の子の師満と思われる。
(4)秀郷流藤原氏の出で、足利大夫成行の孫重澄が若児玉郷(行田市若小玉のあたり)を本拠地としたことからこの名を称したという。
(5)135の文書のこと
〔解 説〕
関東公方足利氏満は、高尾張五郎入道を武蔵国戸守郷に還補し、つづいて同日付で須賀太郎左衛門尉と若児玉美作次郎の両人に、武蔵国戸守郷を高尾張五郎入道に沙汰付けるよう命じたものである。
康暦二年(一三八〇)六月に起きた小山義政の乱は、義政自身が、反乱と帰服をくり返し、なかなか収拾のめどがたたなかったが、三度目の挙兵後の永徳二年(一三八二)四月十三日に、義政が自殺し一応決着がついた。今回の足利氏満による高尾張五郎入道への戸守郷の還補は、小山氏追討の功績によるものと思われる。高氏と戸守郷との関係は、足利尊氏から高師業が以前に補任されたことがあり(史料123)、今回の小山義政の乱の功績によって師業の子の師満に戸守郷が返還されたと思われる。

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