北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

至徳三年・元中三年(一三八六)十月七日・十一月十八日
関東公方足利氏満は、足利鑁阿寺に戸守郷を寄進し、関東管領上杉憲方は、武蔵守護代大石信重にこの地の打ち渡しを命ずる。次いで十一月十八日良綱と宗行は、関東管領の施行状と、武蔵守護代の奉書に任せて、下地を鑁阿寺代官に打ち渡す。

139足利氏満寄進状 〔鑁阿寺文書(1)〕
 永安寺殿(2)氏満朝臣
 寄進 足利鑁阿寺
  武蔵国比企郡戸守郷(高坂左京亮(3)跡)事
 右、任上杉民部大輔入道道昌(4)去応安元年七月十二日寄附状(5)、如元可被致沙汰之状如件
  至徳三年十月七日
       左兵衛督源朝臣(6) (花押)
 
140上杉憲方施行状 〔鑁阿寺文書〕
 上杉道合渡シ文ミ
 武蔵国比企郡戸守郷(高坂左京亮跡)事、任御寄進状(7)之旨、可打渡下地於足利鑁阿寺雑掌之状、依仰執達如件
  至徳三年十月七日  沙弥(8)(花押)
    大石遠江入道(9)殿
 
141良綱・宗行連署打渡状 〔鑁阿寺文書〕
 下野国鑁阿寺雑掌申、武蔵国比企郡内戸守郷高坂左京亮跡事、任去十月七日御施行之旨(10)幷十一月十五日奉書(11)之旨莅彼所、渡付下地於寺家代官候了、仍状如件
  至徳三年十一月十八日 良綱 (花押)
〔読み下し〕
139寄進 足利鑁阿寺
 武蔵国比企郡戸守郷(高坂左京亮跡)の事
 右、上杉民部大輔入道々昌、去んぬる応安元年七月十二日寄附状に任せて、元の如く沙汰致さるべきの状、件の如し
140武蔵国比企郡戸守郷(高坂左京亮跡) の事、御寄進状の旨に任せ、下地を足利鑁阿寺雜掌に打ち渡すべきの状、仰せによって執達件の如し
141下野国鑁阿寺雜掌申す、武蔵国比企郡内戸守郷高坂左京亮跡の事、去んぬる十月七日の御施行の旨ならびに十一月十五日の奉書の旨に任せて、かのところに莅み、下地を寺家代官に渡し付け候いおわんぬ、よって状件の如し
〔注〕
(1)栃木県足利市家富町ニニ二〇 鑁阿寺蔵
(2)ようあんじどの 足利氏満の法号。永安寺は、足利氏満の死後、その菩提を弔うために鎌倉二階堂の紅葉ケ谷に建てられた曹洞宗の寺名である。
(3)高坂重家
(4)上杉憲顕 道昌は法名
(5)史料129の文書のこと
(6)足利氏満
(7)史料129の文書のこと
(8)関東管領上杉憲方 道合は法名
(9)武蔵国守護代大石信重 法名を道守といった。
(10)史料140の文書のこと
(11)武蔵国守護代大石信重が出した奉書と思われる。
〔解 説〕
史料139は、関東公方足利氏満が足利の鑁阿寺(ばんなじ)に、上杉憲顕(法名道昌)の応安元年七月十二日付の寄附状にもとづいて、比企郡戸守郷を寄進するというもの、史料140は、氏満の文書を奉じた関東管領上杉憲方(法名道合、憲顕の子)が、武蔵国守護代大石信重(法名道守)に、戸守郷を氏満の寄進状に任せて鑁阿寺の雑掌に打ち渡すように命じたもの。史料141は武蔵守護代の命令をうけた良綱と宗行の両使が、戸守郷高坂左京亮跡を鑁阿寺代官に打ち渡したというものである。
比企郡戸守郷は、その領有をめぐって高坂氏と高氏とが争ったことは前述したが史料128の文書にもみえる如く、平一揆の乱にさいして所有者の高坂氏が追討されたことにより、ときの関東管領上杉憲顕により鑁阿寺に寄進された(史料130)。さらに永徳二年にいたり高師業の子の師満に同郷が還補されていたが(史料136)、再度同郷が鑁阿寺に寄進されたということになる。これ以後戸守郷は、鑁阿寺の寺領として存続していった。

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