北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

応永二年(一三九五)七月二十四日・同三年七月二十三日
前将軍足利義満は、上杉憲方跡の足立郡馬室郷などの地を上杉憲定に安堵する、次いで管領斯波義将は、馬室郷以下の所領を憲定の代官に沙汰付ける。

142足利義満袖判御教書  〔上杉家文書〕
        (花押)(1)
 安房守憲方(2)法師(法名)跡所領等事、任相伝上椙右京亮憲定(3)可領掌之状如件
   応永二年七月廿四日
 
143斯波義将施行状  〔上杉家文書〕
 武蔵国大窪郷(4)領家職・馬室郷(5)・六郷保郷(6)司職・神奈河郷(7)・六浦本郷(8)・八林郷(9)等事、任去年七月廿四日安堵(10)、可被沙汰付上椙安房守憲定代之由、所被仰下也、仍執達如件
   応永三年七月廿三日 沙弥(11)(花押)
   上椙中務少輔入道殿
〔続み下し〕
142    (花押)
 安房守憲方法師法名跡所領等の事、相伝に任せ上杉右京亮憲定、領掌すべきの状件の如し
143武蔵国大窪郷領家職・馬室郷・六郷保郷司職・神奈河郷・六浦本郷・八林郷等の事、去んぬる年七月二十四日の安堵に任せ、上杉安房守憲定代に沙汰付けらるべきの由、仰せ下さるところなり、よって執達件の如し
〔注〕 
(1)足利義満の袖判(花押) 義満は、応永元年十二月十七日に将軍を辞職し、翌応永二年六月二十日には出家していたが、いぜんとして幕政の主導権を掌握していた。
(2)上杉憲方のことで、法名を道合といった。康暦元年(一三七九)七月から明徳二年(一三九一)十二月まで関東管領に在職していた。
(3)上杉憲方の子で、この当時は伊豆と上野両国の守護であった。
(4)浦和市大久保のあたり
(5)鴻巣市原馬室のあたり
(6)東京都大田区のうち
(7)神奈川県横浜市神奈川区のうち
(8)神奈川県横浜市金沢区のうち
(9)比企郡川島町上八ツ林、下八ツ林のあたり
(10)史料142の文書のこと
(11)幕府管領斯波義将 足利義満に従い出家、道将と号した。
(12)関東管領上杉朝宗
〔解 説〕
史料142は、前将軍足利義満が上杉憲方の遺領をその子の憲定に安堵したものである。
山内上杉憲方は、上杉憲顕の子で、兄憲春のあとを受けて康暦元年(一三七九)七月頃より明徳二年(一三九一)十二月頃まで関東管領に在喊し、応永元年(一三九四)十月十四日に死去している。上杉憲定は憲方の子であり、父の死とともに家督をついだが、142の史料は、それに対する幕府の安堵状であり、143は安堵された所領名が記載されている幕府管領斯波義将施行状であり、これに足立郡馬室郷・大窪郷と比企郡八林郷の名がみえている。
これらの諸郷がいつ山内上杉氏の所領となったかは不明であるが、山内上杉氏がその勢力を確固たるものにした事件に武蔵平一揆の乱がある。この時関東公方の足利氏満は幼少であり、実質的に政治を行ったのは上杉憲顕であった。この乱は上杉氏を中心とする関東府軍の勝利に終っており、乱後平一揆側の処分があいついで行われた。主謀者の河越氏や高坂氏らの所領所職は没収され、所領は寺社への寄進や恩賞として給与されるなどしている(史料129)。とくに河越氏は、その本拠地の河越が主戦場となったこともあって、その名が史料上に見えなくなるほどの壊滅的な打撃をうけている。これ以後上杉氏は河越を中心として勢力を伸ばしていることを想起すると、上杉氏が河越氏の旧領の大部分を給与されたと推断される。馬室郷・大窪郷・八林郷なども、河越氏関係とは断定できないが、この時に恩賞として給与されたものであろう。

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