北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

応永四年(一三九七)七月二十日
関東公方足利氏満は、鎌倉黄梅院に足立郡河田郷領家職内などの地を寄進する。同日、関東管領上杉朝宗は、武蔵守護代千坂越前守に命じ、河田郷領家職内の地などを同院雑掌に打ち渡させる。

144足利氏満寄進状 [黄梅院文書(1)]
 寄進 黄梅院
 武蔵国崎西郡葛浜郷(2)内久下五郎右衛門(3)尉大河辺(跡脱カ)女子方幷同国足立郡殖竹郷(5)地頭職内・同郡河田郷(6)領家職内・同郡淵江郷石塚村(7)等内足立大炊助(8)跡事
 右、為相模国鎌倉郡小坪(9)残半分替、所令寄附也者、早守先例、可致沙汰之状如件
  応永四年七月廿日
     左兵衛督源朝臣(10) (花押)
 
145上杉朝宗施行状 〔黄梅院文書〕
 武蔵国崎西郡葛浜郷内久下五郎右衛門尉跡大河戸女子方・同国足立郡殖竹郷地頭職内・同郡河田郷領家職内・同郡淵江郷石塚村内足立大炊助跡事、守御寄進状(11)之旨、可打渡下地於黄梅院雑掌之状、依仰執達如件
  応永四年七月廿日 沙弥(12) (花押)
  千坂越前守(13)殿
〔読み下し〕
144寄進す 黄梅院
 武蔵国崎西郡葛浜郷内久下五郎右衛門尉(跡)(大河辺(戸)女子方ならびに同国足立郡殖竹郷地頭職内・同郡河田郷領家職内・同郡淵江郷石塚村等の内足立大炊助跡の事
 右、相模国鎌倉郡小坪残り半分の替えとして、寄附せしむる所なりてえれば、早く先例を守り、沙汰致すべきの状件の如し
 
145武蔵国崎西郡葛浜郷内久下五郎右衛門尉跡(大河戸女子方)・同国足立郡殖竹郷地頭職内・同郡河田郷領家職内・同郡淵江郷石塚村内足立大炊助跡の事、御寄進状の旨を守り、下地を黄梅院雑掌に打渡すべきの状、仰せによって執達(しつたつ)件の如し
〔注〕
(1)神奈川県鎌倉市山ノ内四二八 黄梅院蔵
(2)加須市と羽生市にまたがる地
(3)武蔵七党私市氏の出で、大里郡久下(熊谷市久下のあたり)を本拠地とした。
(4)秀郷流藤原氏の出で、大田行広が葛飾郡大河戸を本拠地としたためこの名を称した。
(5)大宮市植竹周辺
(6)桶川市川田谷のあたり
(7)草加市のうち
(8)足立郡に勢力のあった足立氏の子孫と思われるが、実名は不詳
(9)神奈川県逗子市小坪のあたり
(10)関東公方足利氏満
(11)史料144の文書のこと
(12)関東管領上杉朝宗
(13)武蔵国守護代であったが、実名は不詳
〔解 説〕
史料144は、関東公方足利氏満が鎌倉黃梅院に、鎌倉郡小坪の残りの半分の替えとして、足立郡河田郷領家職など四か所の地を鎌倉黄梅院に寄進したもの。史料145は、144の文書をうけて関東管領上杉朝宗(法名は禅助)が、武蔵守護代千坂越前守に、足立郡河田郷領家職内など四か所の地を黄梅院雑掌に打ち渡すよう命じたものである。
黄梅院は、臨済宗円覚寺の塔頭の一つであり、夢窓疎石(むそうそせき)の塔所としてその弟子の方外宏遠(ほうがいこうえん)が造営した。開基は疎石の弟子であり、足利尊氏の近習として有名な饗庭命鶴(あえばようつる)(氏直)であった。応安元年(一三六八)には足利義詮の分骨が葬られたこともあって、関東公方家の厚い保護をうけ、関東における臨済宗夢窓派の中心となっていった。今回の氏満による小坪郷(康安二年・一三六二以来黄梅院領であった「黄梅院文書」)のかわりとしての足立郡河田郷領家職内などにある足立大炊助の旧領の寄進も、関東公方家による黄梅院保護策の一環と思われる。
なお、黄梅院に寄進された所領四か所のうち足立郡にあった三か所のもとの持ち主として足立大炊助という名がみえている。この足立氏は、足立郡の郡司として活躍し、鎌倉時代には御家人として活躍していたが、弘安八年(一二ハ五)十一月におきた「霜月騒動(しもつきそうどう)」で嫡流が滅亡してしまい、以後足立郡関係にその名をみることができなかった。今回見える足立大炊助の系譜は不明であるが、いずれも足立郡内であること、淵江郷及び河田郷はともに以前には足立氏の所領であったこと(『足立系図』)などから、足立郡司の子孫である足立氏の一族と思われる。ただし足立大炊助がこれらの所領を、勲功の賞として獲得したのか、先祖代々うけついでいたのかは不明である。

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