北本市史 資料編 古代・中世
第2章 中世の北本地域
第2節 南北朝・室町期の展開
応永十年(一四〇三)一月十六日・同十二年五月十二日上杉憲定は、馬室郷五分壱などの地を明月院に寄進する。つづいて同十二年五月十二日、侍従恵範は、上杉憲方の菩提を弔うために馬室郷に建立した妙楽寺を、明月院の末寺となるように明月院侍者禅師に依頼する。
147 | 上杉憲定寄進状 〔明月院文書(1)〕 |
寄進 明月院 | |
上野国長野郷内西柴村(2)半分・武蔵国馬室郷(3)伍分壱事 | |
右、為当院領、所寄附之状如件 | |
応永十年正月十六日 沙弥(4)(花押) | |
148 | 恵範証文 〔明月院文書〕 |
武蔵州足立郡馬室郷大工山妙楽寺(5)之事 | |
右、彼寺者、為故明月院殿(6)御菩提、大石大炊助(7)殿為檀那、恵範相共建立申所也、仍彼寺之事、永代為明月院之末寺、可有御計候、為後日証状如件 | |
応永十二年乙酉五月十二日 | |
侍従恵範 (花押) | |
進上 明月院侍者禅師 |
147 | 寄進、明月院 |
上野国長野郷内西柴村半分・武蔵国馬室郷伍分の壱の事、右、当院領として寄附するところの状、件の如し | |
148 | 武蔵州足立郡馬室郷大工山妙楽寺の事 |
右、かの寺は、故明月院殿御菩提のため、大石大炊助殿を檀那として、恵範相共に建立申すところなり、よってかの寺の事、永代明月院の末寺として、御計らいあるべく候、後日のため証状件の如し |
(1) | 神奈川県鎌倉市山ノ内 明月院蔵 |
(2) | 群馬県群馬郡箕郷町上柴村・下柴村のあたり |
(3) | 鴻巣市原馬室のあたり |
(4) | 上杉憲定 法名は長基 |
(5) | 鴻巣市原馬室に現存する寺院名。但し現在では真言宗に改宗している。 |
(6) | 上杉憲方 |
(7) | 上杉氏のもとにあって武蔵守護代をつとめた大石氏の一族と思われるが、実名は不明 |
史料は、山内上杉憲定が、明月院に馬室郷伍分の壱などの所領を寄進したものであり、史料148は侍従恵範が、故上杉憲定の菩提を弔うため、大石大炊助を檀那として足立郡馬室郷に建立した大工山妙楽寺を、鎌倉の明月院の末寺としてくれるように明月院侍者禅師にお願いしたものである。
明月院は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗の寺名で、もともとは同地にあった禅興寺の塔頭(たっちゅう)であった。開基は上杉憲定の父の憲方で、開山は密室守鼓であり、憲方により山内庄内岩瀬郷などの地が寄進されたのを初めとして、以後山内上杉氏の歴代当主の庇護を受けた。明月院の開基である上杉憲方(史料148にみえる明月院(めいげついん)殿)は、応永元年(一三九四)十月二十四日に死亡したが、憲方のあとをついだ憲定も、父憲方の遺志を受けつぎ、馬室郷伍分の壱などの所領寄進をはじめとして、馬室郷内に上杉憲方の菩提をとむらうために建立した妙楽寺を、明月院の末寺とするなど、その保護策を推進した結果、禅興寺は関東公方家の弱体化にともなって衰退していったにもかかわらず、禅興寺の一塔頭である明月院は隆盛していった。
なお上杉氏と馬室郷については、史料143を参照のこと。