北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

応永十二年(一四〇五)二月十二日・七月十日
関東府は、足利鑁阿寺供僧などの訴えにより、武蔵守護代埴谷備前入道に命じて、鶴岡社の違乱を停止し、戸守郷高坂左京亮跡を同寺雜掌に打ち渡させる。次いで七月十日、寺務慈光房代らの同郷への押妨停止を埴谷備前入道に命ずる。

149関東府奉行人連署奉書 〔鑁阿寺文書〕
 足利鑁阿寺供僧等申、当寺四季口(大)般口(若)経口(料)所武蔵国比企郡内戸守郷高坂左京亮跡事、自雪下社務僧正(1)依被借召(2)之、此近年不知行之処、去年如元被返付当寺訖、雖然此内号買得、勝高田及異儀押領(3)之由、歎申云々、為事実者、抑留(4)之段不可然、不日可被打渡彼買得地於寺家雜掌由候也、仍執達如件
  応永十二年二月十二日 左衛門尉(花押)
             沙 弥 (花押)
     埴谷備前入道(5)殿
 
150関東府奉行人連署奉書 〔鑁阿寺文書〕
 鑁阿寺衆徒等雑掌申、当寺領武蔵国戸守郷内寺社領事、号寺務(于時慈光房)代可進止之旨相触之、被致狼籍(藉)之由申之、於彼所者、為四季大般若転読之料所、衆徒中御寄附之間、不可有他綺(6)者也、雖然社務幷慈光房此段被仰候処、新木宰相法印(7)之時、雖有進止之所見、御寄進各別之由、承之上者、可召返代官之由、御返事訖、此上之者(ママ)、不及子細、向後可被存知其旨之由候也、仍執達如件
  応永十二年七月十日 加賀守(8)(花押)
            沙 弥 (花押)
   埴谷備前入道殿
〔読み下し〕
149足利鑁阿寺供僧等申す、当寺四季口(大)般口(若)経□(料)所武蔵国比企郡内戸守郷高坂左京亮跡の事、雪下社務僧正よりこれを借り召さるにより、これ近年不知行の処、去年元の如く当寺に返付せられおわんぬ、しかりといえどもこの内買得と号し、勝・高田異儀に及び押領するの由、歎き申すと云々、事実(ことじつ)ならば、抑留の段しかるべからず、不日かの買得地を寺家雑掌に打ち渡さるべき由に候なり、よって執達件の如し
150鑁阿寺衆徒等雑掌申す、当寺領武蔵国戸守郷内寺社領の事、寺務(時に慈光房)代と号し進止すべきの旨相触れ、狼籍(藉)を致さるの由これを申す、かのところにおいては、四季大般若転読の料所として、衆徒中に御寄附の間、他の綺(いろい)あるべからざるものなり、しかりといえども社務ならびに慈光房この段仰せられ候処、新木宰相法印の時、進止の所見あるといえども、御寄進各(格)別の由、承るのうえは、代官を召し返すべき由、御返事しおわんぬ、このうえは、子細に及ばず、向後その旨を存知せらるべき由候なり、よって執達件の如し
〔注〕
(1)神奈川県鎌倉市内の地名であるが、実際には鶴岡八幡宮別当の弘賢(こうけん)をさす。
(2)かりめす 借用すること
(3)おうりょう 実力を行使して所領を占領すること
(4)よくりゅう 実力で留めおくこと
(5)犬懸上杉朝宗の武蔵守護代をつとめた
(6)いろい 干渉すること
(7)法印頼仲のこと
(8)関東府奉行人の明石加賀守
〔解 説〕
史料149は、関東府が足利鑁阿寺供僧らの訴えにより、武蔵国守護代埴谷備前入道に命じて、雪下社務弘賢僧正による戸守郷内勝・高田の押領を停止し、比企郡内戸守郷高坂左京亮跡を鑁阿寺雑掌に打ち渡させたものである。
史料150は、同じく鑁阿寺衆徒らや雜掌の訴えにより、武蔵国守護代埴谷備前入道に命じ、寺務慈光房代の比企郡戸守郷内寺社領への狼藉を停止させたものである。
鶴岡八幡宮、鑁阿寺の両寺社とも関東公方足利氏にとっては大事な寺社であり、歷代にわたり保護を加えてきたが、今回の争いの当事者は、その両寺社ということになる。149・150の両件とも鶴岡八幡宮社務弘賢が、戸守郷髙坂左京亮跡を借用したことが原因であり、これに対し同地の返還要求、同地への違乱停止要求などが鑁阿寺側より訴え出されたのである。これ以後戸守郷に関する史料に鶴岡八幡宮の違乱に関するものが見えなくなることから、今回の裁判以後、鶴岡八幡宮側の戸守郷への違乱は一応おさまったものと推測される。

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