北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

治承四年(一一八〇)十二月十四日
武蔵国の多くの武士は、源頼朝から本領安堵を受ける。

55 吾妻鏡 治承四年十二月十四日条
十四日壬辰、武蔵国住人、多以本知行地主職、如本可執行之由、蒙下知、北条殿并土肥次郎実平為奉行、邦通書下之云々
[読み下し〕
55 十四日壬辰、武蔵国の住人、多く本知行地主職をもって、本(もと)の如く執行すべきの由、下知を蒙る、北条(時政)殿ならびに土肥次郎実平奉行たり、邦通(藤原)これを書下すと云々
〔解 説〕
本史料は、源頼朝が武蔵武士の多くに功賞をしたものである。ここでいう、「本知行地主職」とは、名字の地等の従来から保有していた所領の諸権利を指す所職のことで、先祖以来の開発により代々継承されてきたものである。したがって、頼朝の功賞は本領安堵といえる。すでに、十月に相模国府で功賞が行われていたが、武蔵武士は安達盛長が含まれるのみで、『吾妻鏡』では、武蔵武士一般に対する功賞記事は、本史料が最初である。緒戦で畠山重忠以下の武蔵武士の大半は、頼朝に敵対していた。彼等が帰順し、頼朝の旗下で血を流したのは、十一月初頭の佐竹氏攻撃戦であった。この血に贖われた奉公の実績があって初めて、頼朝は武蔵武士に本領安堵、すなわち御恩を与えたのである。ここに、頼朝と武蔵武士の間に、御恩と奉公による封建的主従関係が成立したのである。

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