北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

享徳四年(一四五五)閏四月二日
古河公方足利成氏は、豊島太郎に武州に出陣する吉見三郎に同道して軍忠を励むように命ずる。

160 足利成氏書状(切紙) 〔豊島宮城文書(1)〕
就同名仁(2)等事、申上子細被聞食合、可有御落居候、仍武州江被立吉見三郎(3)候、令同道致忠節候者可然候、謹言
  閏(4)四月二日     (花押)(5)
     豊島太郎(6)殿
〔読み下し〕
160 同名の仁らの事について、申し上ぐる子細聞し召し合わされ、御落居あるべく候、よって武州吉見三郎を立てられ候、同道せしめ忠節致し候わばしかるべく候、謹言
〔注〕
(1)東京都千代田区北の丸公園三ノ二 内閣文庫蔵
(2)同姓ということで、豊島一族のこと
(3)横見郡吉見郷(比企郡吉見町)を本拠地とする吉見氏と思われるが実名は不明。なお吉見氏の嫡流は代々「三郎」を名乗る場合が多かった
(4)享徳四年
(5)古河公方足利成氏の花押
(6)豊島氏の一族と思われるが、「経泰」と「泰広」の二説がある。但し原文書を見ると、宛名は本文とは墨色が異なっており、追記と考えられる。
〔解 説〕
この史料は、足利成氏が豊島太郎に対し、同族のことについての件は了承したので、近く沙汰するであろう。ついては吉見三郎が武州に出陣するから、それに従って出陣して欲しいと要請したもので、この前年に起った「享徳の乱」に関係するものである。
享徳の乱は、関東公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害したことが原因で起きた内乱である。扇谷上杉持朝や太田資淸らは、本拠地相模糟屋に退き体制を立て直し、成氏軍らと戦った。長尾景仲らは、成氏軍と分倍河原などで合戦したが敗れ、常陸小栗城に逃れた。成氏らは景仲を追い武蔵府中より武蔵村岡をへて、三月三日には古河に向っている。以後古河を中心に成氏は活動しており、とくに小栗城に入った景仲の攻撃に全力を挙げて取り組んだ。史料の如く成氏による吉見三郎に従っての豊島太郎への出陣要請は、小栗城に籠った景仲を代表とする反成氏勢力の征圧をめざしたと思われる。
ここに見える吉見三郎は、史料156で前述したように武蔵吉見氏の出と思われ、さらに武蔵吉見氏の嫡流は「三郎」を代々名乗っていることを考えるとき、この人物も吉見氏の嫡流、もしくはそれに近い一族と推測される。
なお『本土寺過去帳』に、康正二年(一四五六)正月に行われた下総市河合戦の戦死者のなかに「豊島太郎妙豊」という人物名がみえており、宛名の人物と同一人物かどうかは不明であるが、一応参考のために記しておく。

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