北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

康正二年(一四五六)六月十一日
浄花坊宰相公は、上足立郡などの那智山武蔵国先達旦那職一円を代銭五十貫文で廊之坊に売り渡す。

161 旦那売券  〔潮崎稜威主文書〕
(端裏書)「永代売券之状」
永代売渡申旦那事
  含伍十貫文者新倉郡(1)一円・那賀郡(2)一円・山田郡一円・上足立郡一円
右、件の旦那者、浄花房重代相伝の武蔵国先達旦那一円ニ、依有要用、代銭伍十貫文に廊之坊へ永代売渡申所実正也、但シ武蔵国の引ニおいて者、何国にて候共、一言の子細申ましく候、若此旦那二おいて違乱妨出来候ハゝ浄花妨の子孫として道遣可申候、仍為後日売券之状如件如件
       売主浄花坊宰相公(花押)
 康正弐年六月十一日
〔読み下し〕
161 永代売り渡し申す旦那の事
  合せて伍十貫文てえリ新倉郡一円・那賀郡一円・山田郡一円・上足立郡一円
右、件の旦那は、浄花房重代相伝の武蔵国先達旦那一円に、要用あるにより、代銭伍十貫文に廊之坊へ永代売り渡し申すところ実正なり、但し武蔵国の引きにおいては、何国にて候とも、一言の子細申すまじく候、もし此旦那において違乱の妨げ出来候わば、浄花坊の子孫として道遣(みちやり)申すべく候、よって後日のため売券の状件の如し
〔注〕
(1)新座郡(にいくらぐん)のことで、現在の新座市、和光市、志木市、朝霞市のあたり。
(2)那珂郡(なかぐん)のこと現在の児玉郡美里村を中心とする地域で、明治二十九年の郡制施行により廃された。
〔解 説〕
この史料は、浄花坊宰相公が、廊之坊へ新倉郡・那賀郡・山田郡・上足立郡などの浄花坊引の那智山武蔵国先逹旦那職一円を、代銭五十貫文にて永代売り渡すというものである。
なお武蔵の上足立郡に関しては、応永七年(一四〇〇)の段階で、勝覚院幸湛というものが、今回と同様廊之坊に代銭二十貫文にて売却している(史料146)。
足立郡を上足立郡と下足立郡とに分けるのは、前記の様に応永年間より見え始めることから、この前後から使われだしたのであろう。年未詳九月十二日付慶忠書状によれば(『新編武州古文書』上巻)、「大宮を切り候うて上足立の由候うの条」とあることから、大宮を境に上足立と下足立とに分けていたことが推測され、さらに戦国末期では太田資正書状などにより(『新編武州古文書』上巻)、上足立と下足立の両郡とも三十三郷から成っていたことが指摘される。
但し、上足立、下足立という郡名の使用は、熊野那智関係の資料に多いことから、あくまでも熊野那智関係における領
域を示すことばとして用いられていたものと推測され、『小田原衆所領役帳』に見える行政区分としてのそれとは、おのずから相違していたと思われる。

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