北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

寿永二年(一一八三)二月二十三日
源範頼は、野木宮合戦に小山朝政の救援に駆け付ける。

56 吾妻鏡 養和元年閏二月二十三日条
廿三日己巳、義広(1)率三万余騎軍士、赴鎌倉方、先相語足利又太郎忠綱(2)、忠綱本自背源家之間成約諾、亦小山(3)与足利、雖有一流之好、依為一国之両虎、争権威之処、去年夏之比、可誅滅平相国一族之旨、高倉宮被下令旨於諸国畢、小山則承別語、忠綱非其列、太含欝憤、加平氏、渡宇治河、敗入道三品頼政卿之軍陣、所奉射宮也、異心未散、且以次為亡小山、有此企云々、次義広相触可与之由於小山小四郎朝政、々々父政光者、為皇居警衛、未在京、郎従悉以相従之、仍雖為無勢、中心之所之在武衛、可討取義広之由凝群議、老軍等云、早可令与同之趣、偽而先令領状之後、可度之也者、則示遣其旨、義広成喜悦之思、来臨于朝政館之辺、先之、朝政出本宅、令引籠于野木宮(4)、義広到于彼宮前之時、朝政廻計議而令人昇于登々呂木沢地獄谷等林之梢、令造時之声、其音響谷、為多勢之粧、義広周章迷惑之処、朝政郎従太田菅五、水代六次々郎、和田池二郎、蔭沢次郎、幷七郎朝光郎等、保志秦三等郎攻戦、朝政着火威甲、駕鹿毛馬、時廿五、勇力太盛而懸四方、多亡凶徒也、義広所発之矢中于朝政、雖令落馬、不及死悶、爰件馬離主、嘶于登々呂木沢而五郎宗政年廿、自鎌倉向小山之処、見此馬、合戦已敗北、存令朝政夭亡歟之由、馳駕向于義広陣方、義広乳母子多和利山七太揚鞭、隔于其中、宗政逢于弓手、射取七太訖、宗政小舎人童取七太之首、其後義広聊引退、張陣於野木宮之坤方、朝政宗政自東方襲攻、于時暴風起於巽、揚焼野之塵、人馬共失眼路、横行分散、多曝骸於地獄谷登々呂木沢、又下河辺庄司行平、同弟四郎政義、固古我・高野(5)等渡、討止余兵之遁走云々、足利七郎有綱、同嫡男佐野太郎基綱、四男阿曽沼四郎広綱、五男木村五郎信綱、及太田小権守行朝等、取陣于小手差原、小堤等之処々合戦、此外、蒲冠者範頼同所被馳来也
〔読み下し〕
56 廿三日己巳、義広、三万余騎の軍士を率い、鎌倉の方に赴く、まず足利又太郎忠綱を相語らう、忠綱もとより源家に背くの間、約諾を成す、また小山、足利と、一流の好みありといえども、一国の両虎たるにより、権威を争うの処、去んぬる年の夏のころ、平相国(清盛)の一族を誅滅すべきの旨、高倉宮(以仁王)令旨を諸国に下されおわんぬ、小山すなわち別語を承(うけたまわ)る、忠綱その列にあらず、はなはだ欝憤(うつぷん)を含み、平氏に加わりて宇治河を渡り、入道三品(源)頼政卿の軍陣を敗り、宮を射奉る所なり、異心いまだ散ぜず、かつうは次(ついで)をもって小山を亡さんがため、この企ありと云々、次に義広与(くみ)すべきの由を小山小四郎朝政に相触る、朝政が父政光は、皇居警衛のため、いまだ在京し、郎従ことごとくもってこれに相従う、よって無勢たりといえども、中心のいく所武衛(源頼朝)にあり、義広を討取るべきの由、群議を凝(こら)す、老軍等云わく、早く与同せしむべきの 趣(おもむき)、偽ってまず領状せしむの後、これを度(はか)るべきなりてえれば、すなわちその旨を示し遣わす、義広、喜悦の思いを成し、朝政が館の辺に来臨す、これよりさき、朝政、本宅を出でて、野木宮に引き籠らしむ、義広かの宮の前に到るの時、朝政計議を廻(めぐ)らして、人を登々呂木沢・地獄谷等の林の梢に昇らしめ、時の声を造らしむ、その音谷に響き、多勢の粧(よそおい)をなす、義広周章迷惑の処、朝政が郎従太田菅五、水代六次々郎、和田池二郎、蔭沢次郎、ならびに七郎朝光が郎等保志秦三郎等攻戦す、朝政、火威(ひおどし)の甲(よろい)を着し、鹿毛馬に駕す、時に年廿五、勇力はなはだ盛んにして四方を懸け、多く凶徒を亡ぼすなり、義広発する所の矢、朝政に中(あ)たる、落馬せしむといえども、死悶に及ばず、ここに件(くだん)の馬、主を離れ、登々呂木沢に嘶(いなな)く、しかして五郎宗政年廿、鎌倉より小山に向うの処、この馬を見、合戦すでに敗北し、朝政夭亡せしむるかの由を存じ、駕を馳せ義広が陣の方に向う、義広が乳母子(めのとこ)多和利山七太、鞭を揚げ、その中を隔つ、宗政弓手に逢い、七太を射取りおわんぬ、宗政が小舎人童(こどねりわらわ)七太の首を取る、その後義広いささか引き退き、陣を野木宮の坤(ひつじさる)の方に張る、朝政・宗政東方より襲い攻む、時に暴風巽(たつみ)に起り、焼野の塵を揚げ、人馬共に眼路を失い、横行分散し、多く骸を地獄谷登々呂木沢に曝(さら)す、また下河辺庄司行平、同弟四郎政義、古我・高野等の渡(わたり)を固め、余兵の遁走を討ち止むと云々、(人名略)太田小権守行朝等、陣を小手差原、小堤等の処々に取りて合戦す、この外蒲冠者範頼同じく馳せ来らる所なり
〔注〕
(1)志田義広 清和源氏の出身、頼朝の父義朝の異母弟(木曽義仲の父義賢の同母)。常陸国信太郡を本拠とし、南常陸を勢力圏とする。
(2)足利氏は、秀郷流藤原氏淵名氏族の嫡流で、下野国足利荘(栃木県足利市)を本貫とし、一族が上野・下野両国に広く分布している有力豪族である。忠綱は始祖成行の曽孫に当たる。また、有綱は忠綱の叔父である。なお、藤姓足利氏とは別に、清和源氏の義康を始祖とする源姓足利氏も、当時存在し、後世にその子孫高(尊)氏が室町幕府を開く。
(3)小山氏は、秀郷流藤原氏大田氏族の一流で、下野国寒河御厨=小山荘(栃木県小山市)を本貫とし、同国の有カ在庁官人として藤姓足利氏と並ぶ有力豪族である。政光が始祖で、朝政はその嫡子。朝政の弟宗政は下野国長沼荘(同県二宮町)、同朝光が下総国結城郡(茨城県結城市等)を本貫として、長沼・結城氏を立てることになる。政光の兄弟は、行広が大田荘(南河原村から春日部市北部にかけて)を継承して大田氏、行方が大河戸御厨(越谷市南部から八潮市にかけて)を本貫に大河戸氏、行義が下総国下河辺荘(茨城県古河市から三郷市にかけて)を本貫に下河辺氏を名乗る。行平・政義は行義の子、行朝は行広の子である。以上、大田氏族は利根川水系をめぐる武蔵・下総・下野三か国にかけて勢力を張り各国の有力在庁官人となった。
(4)下野国都賀郡野木神社(栃木県野木町)のことで、武蔵国から陸奥国への奥州街道上に位置した。
(5)古河の渡は渡良瀬川にかかり茨城県古河市中田と栗橋町栗橋を、高野渡は利根川(古利根川)にかかり杉戸町下高野と宮代町須賀を結び、陸奥国への街道上の要点となる。
〔解 説〕
治承四年(一一八〇)に始まった内乱は、折からの大飢饉により、養和元年(一一八一)後半には大規模な軍事行動を停止せざるをえなかった。再び軍事行動が活発になるのが、本年である。それは北関東の地で口火が切られた。本資料に見える野木宮合戦である。南常陸に独自の勢力圏を保持していた志田義広は、北関東の雄、藤姓足利氏と小山氏を誘って、鎌倉の源頼朝に対抗し、関東に覇を唱えんとした。常陸・下野両国の武士の多くを傘下に入れ、義広は三万騎と称する軍を率いて、小山氏と合流するべく下野国小山荘へと進軍した。小山氏は当主政光が在京等で、無勢の嫡子小山朝政が、偽って義広に同意の旨を伝えたが、進路に当たる同国野木宫に待伏せの兵を配した。朝政は志田軍を奇襲し、激戦の中、朝政の弟宗政が鎌倉から救援に駆け付け、ようやく小山氏が勝利した。この合戦に、同族の下河辺行平兄弟が古河・高野渡を、及び大田行朝と藤姓足利氏庶流が小手指原(茨城県五霞村)・小堤(同県総和町)を固め、参戦した。この合戦に小山朝政が勝利したことで志田義広が没落し、信濃国の源(木曽)義仲を頼ることになり、北関東に頼朝の権力が浸透する。本合戦を、『吾妻鏡』では二年前の養和元年のこととして記述されているが、実は本年二月の事実であることが実証されている。
朝政に味方した諸氏の最後に、「蒲冠者範頼同じく馳せ来らる所なり」と見える。これは頼朝の異母弟、義朝六男範頼の『吾妻鏡』での初見記事である。異母弟九郎義経等と異なり、兄頼朝との劇的な対面記事はない。範頼の前半生は義経以上に闇に包まれ、母が遠江国池田宿(静岡県豊田町)の遊女で、「浦(生)冠者」と呼ばれたように同国蒲御厨(同県浜松市)に生れ、京の公家高倉範季の子として養育されたという。以上の三点が確実な史料で確認できるのみである。従って内乱前半には頼朝の下に行動していないとすべきであろう。
ところで、吉見町では、黒岩の安楽寺で稚児僧として成長したとか、御所の息障院が館跡とか等の、幾多の範頼関係の伝承が近世に記録されている。これは彼の後裔が吉見氏を名乘ることに関係していよう。また、石戸宿の堀之内館跡が彼の館であると伝え、同地で自害し、蒲桜が手植えの墓標であり、東光寺が彼の娘亀御前追福のため創建された(『新編武蔵風土記稿』)等、本市域での範頼関係の伝承が多数記録されている。これは範頼の正室が安達盛長の娘であることに関係していよう。以上、本市及び周辺には範頼の足跡に関する多数の伝承がある。これらは史実性に乏しいので、範頼が前半生から当地に関係していた可能性は薄いが、いずれにせよ、彼をめぐるーつの視点を与えてくれよう。その意味で範頼は本市に関係しうる注目すべき人物である。

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