北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

長禄元年(一四五七)四月
太田資清が岩付城を築くという。

163 鎌倉大草紙  〔群書類従〕
下総国にハ東野州常縁と馬加陸奥守(1)幷岩松輔胤と所々におゐて合戦止時なし、扨又京都にハ御沙汰ありて、常縁を召上せられんために、長禄元年六月廿三日、渋川左衛門佐義鏡を大将として武蔵国へ被指下、是ハ公方の近親にて代々九州探題の家なれバ、諸家も重き事に思ひける、上祖父左衛門佐義行(渋川)ハ久しく武州の国司にてあり、其時より足立郡に蕨と云所を取立居城にして、今に至る迄此所を知行しけれバ、旁此仁可然とて、義鏡を探題にしたまひ、御下知の通武州・上州の兵どもに申聞せ、成氏を退治して、上杉を管領として、関東を可治趣を触わたす、板倉大和守(2)先達(立)而(て)罷下り、此由を申ければ、上杉方の兵ども各馳集りて、渋川殿へ参会して、京公方(3)の御下知を承る、其年長禄元年四月、上杉修理大夫持朝入道(4)武州河越『イ岩槻』の城を取立らる、太田備中守入道(道真、資清)(5)ハ武州岩槻(埼玉郡)『イ河越』の城を取立、同左衛門(資長)大夫(6)ハ武州江戸(豊島軍)の城を取立ける、成氏も同年の十月、総州下河辺古河の城普請出来して、古河へ御移ありける、京都より渋川殿探題にて御下し有、武州・相州の兵どもを集め下知し、東常縁両総州の残兵どもを下知しけれども、東国の兵共尚以成氏を背く者すくなかりければ、如何様京都公方の御子を一人関東の主として御下向ありて関東の公方と定め、彼御下知にあらずんば関東治り難きよし諸家言上しける間、此義尤可然とて、将軍家(足利義政)の御舎弟香敏院殿(7)と申て禅僧にて天龍寺に御座ありけるを、長禄元年十二月十九日、廿三歳にて俗にかへし申、左馬頭政智(足利)と名付、上杉中務丞御上使として、同治部少輔政憲・南伊予(イ勢)守・飯河河内守・布施民部太輔・木戸三河原(守カ)孝範等御供にて、同月廿四日伊豆国迄御下向あり、三島大明神へ御参詣あり、彼於神前御元服ありける
(後略)
〔読み下し〕
163 略
〔注〕
(1)馬加康胤
(2)板倉頼資
(3)足利義政
(4)扇谷家当主 扇谷家は、関東管領上杉四家の一つで、山内家とともに両上杉と呼ばれ、山内家が関東管領(兼任武蔵国守護)・上野国守護を継承したのに対し、相模国守護を継承した。
(5)太田資清 扇谷家執事を勤め、関東に重きをなした。
(6)太田資長 資清の嫡子 文武の名将として知られ、扇谷氏の執事となる。
(7)還俗して堀越公方、足利政知となる。
〔解 説〕
下総国古河城(茨城県古河市)に居す古河公方足利成氏は、武蔵国内では騎西城(騎西町)を橋頭堡にほぼ元荒川以東を掌握下に置き、足立郡にも影響力を行使していた。これに対して、関東管領上杉(山内)房顕は、上野国平井城(群馬県藤岡市)を本拠に対抗しており、相模国守護扇谷上杉氏の当主持朝が、長老として若い房顕を支え、第一線にあった。関東の覇権は武蔵国の把握にかかる以上、上杉方の同国対策が不可避であった。それが、本史料に見る、岩付・江戸・河越三城の築城である。ここでは、岩付城は太田資淸(道真)、江戸城は太田資長(道灌)、河越城は上杉持朝がこの年四月に築いたとある。だが実際は、扇谷家執事の太田資清父子を中核に、数年を要して完成させたものである。持朝の河越城を要に、資清の岩付城が対古河城、道灌の江戸城が対下総の前線基地となる。一方、山内家では五十子砦(本庄市東五十子)を築き、武蔵国内の本陣とした。こうして、上杉方の武蔵国防衛態勢が構築され、扇谷家の役割が一段と高まり、この主軸tが執事太田氏となる。
他方、京の幕府は独自の成氏対策を試みた。それが、本史料に見える将軍足利義政の弟政知の下向と、この執事である渋川義鏡の派遣である。従前の関東管領上杉氏を支持する方針から、上杉氏抜きの新関東府の樹立を指向したのである。義鏡は足立郡に蕨城(蕨市中央四丁目)を築き拠点としたとあるが、他の史料からの傍証はできない。一方政知は結局のところ箱根山を越えられず、伊豆国堀越(静岡県韮山町)に居し堀越公方と呼ばれる。なお、本資料では彼の下向は本年とあるが、実際は翌年五月から八月までの間とされ、義鏡もそれに同行したのである

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