北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

文正元年(一四四六)五月三日・文明四年(一四七二)十一月二十五日
橋爪八郎は、足立郡須田一門の那智山旦那瞰を質として、某から一貫文を借りる。また同八郎は、足立郡並びに須田一族の那智山旦那職を鳥居殿に売り渡す。

164 借銭状 〔米良文書〕
(端裏書)「利銭状(文正元年) 橋爪八郎」
申請利銭之事
  合壱貫文者、 月別五文子也
右、彼御料足者、用々有によんて申請処実正也、但御質物にハ武蔵之国足立之郡す田(1)の一門一円に入置申候、明年二月過候者、此状を売券として十ケ年之分御知行あるへく候、其時一儀之子細申ましく候、尚々彼道者、橋爪の小(少カ)将殿持分にて候を御しち(質)ニまいらせおき候、仍為後日借状如件
  文正元年 丙戌 五月三日
      売主 橋爪八郎(略押)

165 旦那売券 〔米良文書〕
(端裏書)「売券状文明四年 橋爪八郎」
永代売渡申檀那之事
  合代参貫五百文者
右、件旦那者、武蔵国足立郡之旦那と須田之一族一円ニ、鳥居殿御方江限永代売渡申候之処実正也、我々知行の分いつれの先達引候とも、須田の一門之事者、一円ニ可有御知行候、もし於子孫此之旨をそむく輩候者、武蔵国我々重代相伝仕候分二被懸可申候、仍為後日明鏡、売券之状如件
  文明四年 壬辰 霜月廿五日
      うり主 橋爪八郎(花押)
   かいぬし(買主)鳥居殿
〔読み下し〕
164 申し請(う)くる利銭の事
  合せて壱貫文てえり(月別五文子なり)
右、彼の御料足は、用々有るによんて(よって)申し請くる処実正なり、但(ただ)し、御質物にハ武蔵の国足立郡・す田の一門一円に入れ置き申し候、明年の二月過ぎ候わば、此の状を売券として十ケ年の分御知行あるべく候、其の時一儀の子細申すまじく候、尚々、彼の道者橋爪の少将持分にて候を御しちにまいらせおき候、仍(よ)って後日のため借状件(くだん)の如し
165 永代売渡し申す檀那の事
  合せ代参貫五百文てえり
右、件の旦那は、武蔵国足立郡と須田の一族一円に、鳥居殿御方へ永代を限り売渡し申し候の処実正なり、我々知行の分いづれの先達引き候とも、須田の一門の事は、一円に御知行あるべく候、もし子孫においてこの旨をそむく輩候わば、武蔵国我々重代相伝仕り候分に懸けられ申すべく候、よりて後日明鏡のため、売券の状件の如し
〔解 説〕
史料164は文正元年(一四六六)五月、橋爪八郎は須田一族の檀那職を質物に銭一貫文を借りている。借主は不明だが、165の史料からおそらく鳥居殿であろう。史料165は、足立郡および須田一族の檀那職を、銭三貫五百文で橋爪八郎が鳥居殿に売り渡したものである。売主・買主ともに熊野山の御師といえようが、買主の鳥居殿は次の史料166の鳥居御房と同一人か同族と考えられる。なお、須田(角田)氏は、武蔵・下総国境である墨田川東岸の下総国墨田(東京都墨田区)を名字の地とする鎌倉御家人の出身であるが、出自を不明とする。桶川市史はこれを上尾の須田一族としている。

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