北本市史 資料編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 古代・中世

第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

大永四年(一五二四)四月十日
相模国当麻宿宛の伝馬制札に、小田原より足立郡石戸・入間郡毛呂へ往復の者と見える。

167 北條家制札 〔関山文書(1)〕
  制札(2)        たいまの宿
右、玉縄(3)・小田原よりいしと(4)ゝもろ(5)へわうふくのもの、とらの印判(6)をもたさる者二、てん馬(7)おしたていたすへからす、もしおさへてとるものあらは、きっとめしつれ、おたわら(おだわら)へ成共、玉なわ(縄)へ成共、こすへき者也、仍如件
  大永四年     (禄寿応穏)
     四月十日
       但、印判なり共、日付三日すきハ、もちいへからす

〔読み下し〕
167 略
〔注〕
(1)相模国高座郡当麻(神奈川県相模原市当麻)の旧商家関山家伝存の古文書で、同県厚木市関山登勢子氏所蔵。当麻は平塚より八王子を経て毛呂へ通じる街道の宿駅
(2)法令(特に禁止項目)を箇条書きにし、道端・神社境内等に掲げた札
(3)相模国玉繩城(同県鎌倉市)、東海道上の要点を占める。後北条氏の有力支城で、城下町も形成され物資流通の結節点であった。
(4)足立郡石戸 すなわち本市石戸宿のことで、当時、河越から鴻巣・忍(行田)を経て上野国に至る街道と、岩付城へ至る街道上の宿駅であり、近くに石戸城があった。
(5)入間郡毛呂郷(毛呂山町毛呂本郷等)、ここに毛呂城がある。
(6)上部に虎の蹲踞像を、下部に「禄寿応穏」の四字を刻んだ朱印で、後北条氏の歴代当主が使用した。
(7)逓送用の駄馬・乗馬のことで、宿駅に置かれる。
〔解 説〕
大永四年正月、江戸城奪取で武蔵国に地歩を築いた後北条氏は、領国支配のため、伝馬組織を整備していた。本史料は、相模国当麻宿に掲げた制札である。内容は、小田原・玉縄より石戸・毛呂への往復の者の伝馬使用に、虎の印判状による使用許可を必要とすることを指令し、違反者の逮捕、小田原・玉縄への連行を命じたものである。また、但書で、伝馬使用許可状の日付が三日を過ぎたものは、無効と指示している。入間郡の毛呂城はこの時期に後北条氏の勢力下にあったが、石戸については、直接にその勢力が及んでいたとは考えられない。いずれにせよ、当時、石戸が、河越・松山・忍・岩付城に通じる武蔵国内の交通要点として、後北条氏が把握しようとしたことがわかる。後北条氏は宿駅に伝馬制度を確立させ、領国支配を図ったのである。

<< 前のページに戻る