北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

大永五年(一五二五)二月六日
北条氏綱は、太田資頼の岩付城を落す。

168 北条氏綱書状  〔上杉家文書(1)〕
御懇預御報候、畏入候、爰元之事、定可有其聞得候哉、去年以来、渋江三郎(2)相頼候上、依無拠今迄令扶助候、然而本意之事、色々被歎候間、去月(二月)四日不虞二罷立候、折節依雨中途逗留、六日従巳刻要害(3)取寄、終日攻戦候、及申刻要害落居、為宗者共数多討捕候、如斯上朝興催促候哉、上州衆(4)数多被罷立候、雖然手早渋江ニ彼要害相渡、九日及暮江城打帰候、上州衆於于今境目張陣候、従四五日已前、金田(5)拘候菖蒲要害へ、御連枝四郎(6)殿御取懸候、岩付事、雖渋江ニ相渡候、窂人帰与言、不事調候上、二三百差副人数籠置候所ニ、金田、渋江ニ別而知音間、岩付ニ差籠候人数百計、菖蒲へ入之由申越候間、彼岩付事も、猶無心元候條、重々弓を二百計差遣候、如何要害共可持候哉、勝事令存候、所々刷ー身心仕候、乍恐被懸辛労御察過間敷候、就中甲州事、某へ、別義無之由被申候間、先以知音至候、然共出羽を可進之候之由、武田(7)方へ相頼候処ニ対其方申遺恨之段を被申候、返事然々与無之候間、色々以調法関東秩父を進候、無相違罷通候へかしと念願候、又申候、御同名中御事も、彼者口上ニ申候、能々御尋可畏入候、恐々謹言
猶々密々事ハ、大熊(8)方へ申候條、定可被申候
   三月十日   北條氏綱(花押)
  謹上 長尾信濃守(9)殿
            御宿所

〔読み下し〕
168 御懇に御報に預り候、畏み入り候、ここ元の事、定めてその聞こえあるべく候や、去んぬる年以来、渋江三郎相頼み候上、拠(よんどころ)無きにより今まで扶助せしめ候、しかして本意の事、色々歎かれ候間、去んぬる月四日、不虞に罷り立ち候、折節雨により中途に逗留す、六日、巳刻より要害に取り寄せ、終日攻め戦い候、申刻に及び要害落居し、宗たる者共数多(あまた)討ち捕らえ候、かくの如き上は朝興(上杉)催促し候や、上州衆数多罷り立てられ候、しかりといえども手早く渋江にかの要害を相渡し、九日、暮に及んで江城(江戸)に打ち帰り候、上州衆今に境目に於いて陣を張り候。四五日已前より、金田拘え候菖蒲の要害へ、御連枝四郎殿御取り懸り候、岩付の事、渋江に相渡し候といえども、窂人帰ると言い、事調わず候上は、二三百人数差し副え籠め置き候所に、金田、渋江に別して知音の間、岩付に差し籠め候人数百ばかり、菖蒲へ入るの由を申し越し候間、かの岩付の事も、なお心元無く候条、重ね重ね弓を二百ばかり差し遣わし候、如何なる要害共持ち候べきや、勝事存ぜせしめ候、所々一に身心を刷(かいつくろ)い仕り候、恐れながら辛労を懸けらるるは御察し過ぎ間敷く候、なかんづく甲州の事、某へ、別義これ無き由を申され候間、まずもって知音の至りに候、しかれども出羽を進らすべく候の由、武田方へ相頼み候処に、その方に対し遺恨申すの段を申され候、返事しかじかとこれ無く候間、色々調法をもって関東秩父を進らせ候、相違無く罷り通り候えかしと念願候、また申し候、御同名(長尾)中の御事も、かの者口上に申し候、よくよく御尋ね畏み入るべく候、恐々謹言
なおなお密々の事は、大熊方へ申し候条、定めて申さるべく候
〔注〕
(1)出羽米沢藩主上杉氏の鎌倉期以来の伝存古文書で、山形県米沢市上杉隆憲氏所蔵
(2)実名不詳 渋江氏は、武蔵七党の一つ野与党の出身で、埼玉郡渋江郷(岩槻市本町辺)を名字の地とし、岩付城築城以前から当地を本拠としていた。
(3)岩付城を指す。
(4)上杉(山内)憲房旗下の上野国武士
(5)実名不詳 金田氏は、近江国佐々木氏出身と称し、康正二年(一四五六)に則綱が築いたと伝える埼玉郡菖蒲城(菖蒲町新堀)城主
(6)上杉憲寛 古河公方足利高基の子で、憲房の養子となる。本年三月の憲房死去で、関東管領を継ぐ。
(7)甲斐国の戦国大名武田信虎 武田氏は、清和源氏出身で、平安期以来の名家で、同国守護を継承
(8)大熊政秀 越後国箕冠城(新潟県板倉町)城主で、長尾為景の家臣
(9)越後国の戦国大名長尾為景 越後長尾氏は同国守護代を勤めたが、為景の時、守護越後上杉氏より自立する。春日山城(同県高田市)城主
〔解 説〕
本史料は、北条氏綱より長尾為景に、岩付城攻略とその後の経緯を述べ、上野国の上杉憲房の牽制を依頼したものである。内容は、渋江三郎の内通に成功した氏綱が、二月四日、江戸城を出陣し、六日午前十時頃より岩付城攻擊を開始し、午後四時頃に陥落させた。そこで渋江三郎を守将とし、九日、氏綱は江戸城に帰還した。これに対し、上杉(扇谷)朝興の援軍として、上杉(山内)憲房の上野軍が出陣してきた。三月に入り、上杉(山内)憲寛が、渋江氏と深い縁にあった金田氏の菖蒲城を攻擊したため、氏綱は岩付城より救援部隊を送るとともに、同城にも弓兵を急派して守備を固めた。また武田信虎へも色々交渉して敵対しないようにする。なお秘密のことは大熊政秀に言ってある。文意は以上であるが、他方、同月付で上杉朝興・太田資頼・三戸義宣等は為景の越山(関東救援)を要請した。これには、「大永五七卅」とあり、年欠の本史料が本年のものと知れる。さて、戦いに敗れた岩付城主太田資頼は石戸城へ退いたと伝える。彼は再起を北本で期したことになる。岩付城は武蔵国支配の要衝として、太田・後北条氏の攻防の的となる。なお、享禄四年(一五三一)九月には、資頼は岩付城を回復したと伝える。

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