北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

天文六年(一五三七)七月十五日
北条氏綱は、入間郡三ッ木で扇谷朝定と戦い勝利して、河越城を奪う。

170 快元僧都記(1)  〔群書類従〕
    七月大
(前略)
十一日、氏綱武州出陳
(中略)
十六日、由井浜へ引付了、即数千人以人夫上之了、然ハ河越没落之由註進、神之影向真以不思議也、昨日於社頭祈念之処、如此義如何、併以前祈念有之也、先向怨敵退散豈祈禱無其験可謂乎、去十一日出陣也、即為祈禱大般若転読畢
(中略)
廿二日、飛脚帰、一昨日廿日、松山へ動難波田人数卅余人討捕之由有沙汰、返札二モ同前、今度敵三百余人滅亡、各神之擁護之由被申了、(難波田弾正入道善銀(2)甥同名隼人佐等幷子息三人打死、都鄙惜之)

171 北条記(3)  巻第二 〔群書類従〕
    河越城責事
武州ノ国司上杉扇谷修理大夫朝奥(興)ハ、度々ノ合戦ニ討負、江戸城ヲモ責落サレ、不安思ハレケレトモカ不及、如何二モシテ氏綱(北条)ヲ亡サハヤト骨ズイ二徹シテ思クラシケルカ、重病ヲ請て已二逝去セシニ、子息五郎朝定(上杉)ヲ初メ、三田・萩谷以下ノ老臣ヲ呼出シ、遺言シケルハ、吾已二定業ノ病ヲ請、命尽ナントス、汝等タシカニ吾遺言ヲ聞テ背コトナカレ、吾氏綱卜合戦スルコト已十四度、一度モ打勝コトナシ、斯レ生々世々ノ恥辱卜思へハ、妄念トモ可成、吾死ナハ早々仏事作善ノ営ヨリモ、先カレヲ対治シテ、国家ヲ可治卜庭訓ヲ残シテ、天文六年卯月下旬(二十七日)、朝露トキエ玉フ、子息五郎朝定、生年十三歳ニシテ家督ヲ継ケルカ、父ノ遺言ニマカセ仏事作善ヲ拋テ、先武州ノ神太寺卜云処二故要害ヲトリタテ城トシテ、氏綱ヲ対治セントシタクシケレハ、氏綱斯ヲ聞玉ヒテ、同七月十一日、サカヨセ二河越ノ三木(4)卜云所マテ押寄タリ、先カケノ兵二ハ、井浪・橋本・多目・荒川ヲ足軽大将トシテ定、松田・志水・朝倉・石巻ヲ五手二備テ待懸タリ、上杉五郎(朝定)是ヲ聞テ、伯父左近大夫(上杉朝成)・曽我丹波守ヲ相ソへ、武州・上州兵二千余騎ニテ懸合、火出ル程コソ戦ケル、去程ニ入乱テ吾モ々々トカセキケル二、如何シタリケン大将〇(上杉)左近大夫朝成深入シテ生捕ケレハ、残ル兵散々二引テ行、フセクへキ軍勢ナケレハ、朝定若武者ナリ、難叶ミエケル間、城ヲ落テ松山ノ城へ行、難波田弾正(善銀)ヲソ頼ケル、弾正力ヒ々々シク頼レテ、残当ヲ集メ河越ヲ可責卜聞エケレハ、氏綱(北条)則サカヨセニ松山二押寄テ、息ヲモツカセス責玉フ、弾正父子切テ出、散々ニ切合突合防戦ケレトモ、勝ホコリタル小田原勢、是ヲ事卜モセス、終ニ敵ヲ追入テ、町屋近辺在々所々、悉ク焼払テ、則馬ヲ入玉フ
〔読み下し〕
170・171  略
〔注〕
(1)鎌倉の鶴岡八幡宮供僧の相承院快元の同社造宮略日記で、享禄五年(一五三二)から天文十一年(一五四二)までを記す。
(2)難波田憲重 扇谷上杉氏重臣で、松山城々代。難波田氏は、武蔵七党村山党の出身で、入間郡難波田(富士見市南畑)を名字の地とし、戦国期では平安期以来の数少ない同国々人
(3)東乱記ともいい、異本に小田原記・相州兵乱記等がある。作者・成立年期とも不詳。永享八年(一四三六)から天正十八年(一五九〇)まで、後北条氏五代の興亡を中心に記述されている。
(4)入間郡三ッ木(狭山市東三ッ木)で、河越城南東七キロに位置し、街道上にあたり何度か合戦埸になった。
〔解 説〕
江戸城奪還に執念を燃やした扇谷上杉氏の当主朝興は、本年四月二十七日、河越城で五十歳で死去し、十三歳の子息朝定が跡を継いだ。ここに所載の二点の史料は、北条氏綱の河越城奪取に関するものである。史料171に見られるように、父の遺志を継いだ朝定は、多摩郡神大寺城(東京都調布市)を再興し、後北条氏に対抗しようとした。逆に、氏綱は河越城へと兵を進めた。史料170では、七月十一日、武蔵国へ出陣し、十六日、河越城落城の報が鎌倉に入り、二十日、松山城の難波田憲重を攻撃し勝利している。史料171により、河越城攻防戦の様子がわかる。十一日、城東南の三ッ木原に進撃してきた氏綱に対し、朝定は叔父の朝成・家老の曽我丹波守とともに出撃し、同原にて合戦したが、大将の朝成が捕虜となり大敗した。朝定は城を支えられず、北へ敗走し、松山城へと難波田憲重を頼った。氏綱は、さらに同城へと攻撃を懸け、城下で戦い火を放った。扇谷家は松山城に後退し、先年の江戸城に続き、本城河越城をも失い、著しく弱体化した。以後、山内上杉氏が対後北条氏戦の第一線に出てき、河越城は、後北条氏と両上杉氏との、関東の覇権を賭けた攻防の場となる。武蔵国経営に欠くことのできない河越城を手中にした後北条氏は、この後同国に確固たる地歩を築くのである。

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