北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

天文十五年(一五四六)四月二十日
北条氏康は、河越城を包囲する足利晴氏・山内憲政・扇谷朝定らを攻撃し、破る。

172 北条氏康書状写 〔歴代古案(1)〕
雖蓮々 公方(2)様御刷、是偏無其曲奉存候、既骨肉同姓(3)、宮仕ニ罷参候上、若君(4)様御誕生已来者、猶以忠信一三味ニ、令逼塞候之処、去年号長久保(5)之地、自駿州(6)被取詰処憲政(7)為後詰、河越城を取巻、御動座之儀、頻被申上之由、其聞候間、氏康事茂御膝下ニ可罷在候得者、代官度々如言上者、此刻一方向之御懇切、可為迷惑候、唯何方へも無御発向者、互之依善悪、御威光可参候由、申上候処、過半有御納得、御誓句之御書、謹而頂戴、再拝読、奉成案(安)堵之思候処ニ、難波田弾正左衛門・小野因幡守(8)已下依申上、頓而被翻 上意、被出御馬、及両年被立御旗候之間、城中三千余人、籠置候者共、運粮用路塞候間、各及難儀由、承ニ付而、河越籠城之者共、御赦免候者、身命計被相扶候者、以手堅証人、要害可進渡之由、御膝下之面々ニ付而、令悃望候処、伊豆・相模者、悉此城ニ集来候事、 又不可有之候、自懸天網之間、壱人茂不可漏候、此等之儀、不可出申之由、断而御返答之間、失途轍候之段、申越候間、氏康無拠、号砂窪(9)地へ打出、以諏訪左馬助(10)・小田政治(11)代菅谷隠岐守(12)、雖未聞不見之仁候、従御備之内招出相頼、河越籠城之者共、身命計御赦免候者、其方人数為警固、只今要害為明渡可申、氏康罷出之、由、申上候処、御逆鱗以外之間、重而難達上聞之由、挨拶候之間、則諸軍砂窪へ押寄候之間、時節到来、難遁遂一戦、於当口案外切勝、憲政馬廻ヲ為始、倉賀野三河守(13)三千余人討捕候、就中、此度之讒(言カ)者根本人難波田入道・小野因幡守討取候、散累年之宿望事共者、氏康心底正路之儀、天道之憐故、開運命候、誠不思儀次第候、然者、先年亡父氏綱、以若干之 上意、内々御頼候間、依難背君命、義明(14)様奉退治、抽関東諸士、励忠勤事、都鄙無其隠候処、無幾程先忠御忘、可被絶其子孫御擬、君子之逆道、何事候哉、不善歟、不悪歟、請普以何様不可被説候、爰許能々為御分別、令啓逹候早、恐惶謹言
(朱書)「一本ニ天文十五年四月廿九日卜有」
  天文十二(15)
   四月 日      左京大夫
                 氏康
    六月十日 (「一書ニ有之」
    進上  簗田中務大輔(15)殿
 〔読み下し〕
172 連々 公方様御刷(かいつくろ)いこれ偏えにその曲なく存じ奉り候といえども、すでに骨肉の同姓、宮仕えに罷り参り候上、若君様御誕生已来は、なお忠信をもって一に三昧に、逼塞(ひっそく)せしめ候の処、去んぬる年長久保と号すの地、駿州より取り詰めらるるの処、憲政後詰として、河越城を取り巻き、御動座の儀、しきりに申し上げらるの由、その聞え候間、氏康(北条)が事も御膝下に罷り在り候えば、代官たびたび言上の如くんば、この刻(みぎり)一方の御懇切、迷惑たるべく候、ただ何方へも御発向なくんば、互いの善悪により、御威光参るべく候由、申し上げ候処、過半御納得あり、御誓句の御書、つつしみて頂戴し、再び拝読し、案堵の思いを成し奉り候に、難波田弾正左衛門・小野因幡守已下(いげ)申し上ぐるにより、にわかに上意を翻えされ、御馬を出だされ、両年に及び御旗を立てられ候の間、城中三千余人、籠め置き候者共、粮を運ぶ用路を塞ぎ候間、おのおの難儀に及ぶの由、承るに付きて、河越籠城の者共、御赦免に候わば、身命ばかり相扶けられ候者、手堅き証人をもって、要害渡し進らすべきの由、御膝下の面々に付けて、悃望せしめ候処、伊豆・相模の者、ことごとくこの城に集い来たり候事、またこれあるべからず候、天網に懸くるよりの間、壱人も漏らすべからず候、これらの儀、出だし申すべからざるの由、断じて御返答の間、途轍(とてつ)を失い候の段、申し越し候間、氏康拠(よんどころ)なく、砂窪と号す地へ打ち出で、諏訪左馬助・小田政治が代菅谷隠岐守をもって、未聞未見の仁に候といえども、御備えの内に従い招き出で相頼み、河越籠城の者共、身命ばかり御赦免候わば、その方が人数警固として、只今要害明け渡し申すべきため、氏康罷り出づるの由、申し上げ候処、御逆鱗もっての外の間、重ねては上聞に逹しがたきの由、挨拶候の間、すなわち諸軍砂窪へ押し寄せ候の間、時節到来、遁れがたき一戦を遂げ、当口において案外に切り勝ち、憲政が馬廻りを始めとして、倉賀野三河守三千余人討ち捕らえ候、なかんづく、この度の讒者(ざんしゃ)根本人難波田入道・小野因幡守討ち取り候、累年の宿望を散ぜし事共は、氏康が心底正路の儀、天道の憐れみ故、開運の命に候、誠に不思儀の次第に候、しからば、先年亡父氏綱、若干の上意をもって、内々御頼み候間、君命に背きがたきにより、義明様退治奉り、関東の諸士に抽んで、忠勤に励むの事、都鄙(とひ)にその隠れなき候処、幾程もなく先忠を御忘れ、その子孫を絶えらるべき御擬、君子の逆道、何事に候や、善ならざるか、悪ならざるか、請う、普く何様をもって説からるべからず候、爰許、よくよく御分別をなし、啓達せしめ候いおわんぬ、恐惶謹言
〔注〕
(1)近世に上杉氏関係の古文書を収集したもので、米沢市立図書館所蔵
(2)古河公方足利晴氏
(3)北条氏綱の娘(氏康妹、法名芳春院)。晴氏の正室
(4)足利梅千代丸(義氏)。晴氏の子、母芳春院
(5)駿河国長久保城(静岡原長泉町)のことで、後北条氏の西の最前線である。城将は氏康の叔父長綱
(6)駿河国の戦国大名今川義元
(7)山内上杉憲政 憲房の子で、享禄四年(一五三一)九月に養兄憲寛を追放し、関東管領になる。
(8)実名不詳 山内家重臣
(9)入間郡砂窪 現在の川越市砂久保で、河越城の南四キロに位置する。
(10)実名不詳 寺尾城(川越市)城主で、上杉氏の家臣
(11)小田氏治の誤り。常陸国小田城(茨城県つくば市)城主で、関東八名家の一つ
(12)実名不詳 同国土浦城(同県土浦市)城主で、小田氏重臣
(13)実名不詳 上野国倉賀野城(群馬県高崎市)城主で、山内家重臣
(14)小弓御所足利義明のことで、第一次国府台合戦を指す
(15)簗田高助 下総国関宿城(千葉県関宿町)城主で、古河公方の家宰
〔解 説〕
本史料は、所謂「河越合戦」に関係するもので、合戦終了後に、北条氏康が古河公方足利晴氏の背信を責めて、二度とこの様なことがないよう詰問のため、家宰簗田高助に発した書状である。ここに、「河越合戦」に至る経緯と結果が述べられている。北条氏綱の跡を継いだ嫡子の氏康は、上杉氏と争う一方で、古河公方足利晴氏と身内関係にあり、友好関係を保っていた。他方、西に今川義元と富士川以東の地(河東)をめぐって争っていた。天文十四年(一五四五)八月、義元は氏康と駿河国今井狐桶(静岡県富士市)で戦った。長久保城攻略のためである。同年九月、これに呼応して、山内上杉憲政は扇谷上杉朝定とともに河越城を包囲したため、氏康は東西に敵を受けた。十月、晴氏は氏康との縁を切って、上杉方に味方し、同城包囲陣に加わった。そこで、甲斐国の戦国大名武田晴信(信玄)の斡旋で、氏康は義元と和平を結び、河東地域を失った。明けて本年四月、北条綱成の固守する同城救援のために、氏康は出陣し、城南の砂窪に陣を敷いた。籠城兵の赦免等色々と交渉がなされたが、二十日夜、氏康は上杉方を急襲し、後北条軍の大勝に終った。憲政は本国の上野国平井城へ敗定し、晴氏も古河城へ戻った。朝定は戦死して扇谷家が滅び、難波田憲重も戦死した結果、松山城は後北条氏の手中に落ちた。城代には垪和(芳賀)伊予守を入れた。本合戦の勝利により、多摩郡滝山城(東京都八王子市)の大石定久、秩父郡天神山城(長瀞町)の藤田邦房等の武蔵国内の有力国人衆が氏康の旗下に降り、後北条氏は同国をほぼ制圧したのである。岩付太田氏では、当主の資時が少なくとも中立を守って帰伏したのに対し、弟の資正は上杉方に加わり上野国に敗走するなど(次項参照)、勢力は二分されたのである。なお、本史料には合戦日時が記していないが、『北条記』等で、四月二十日と考えられる。また、本書状は色々な史料に載せられ語句・日付にも差異があるが、年次は本史料の朱書に拠った。

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