北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

天文十五年(一五四六)八月二十八日
太田資正は、後北条氏の城代垪和伊予守の守る松山城を奪還する。

173 太田資武状(1)  〔川島町養竹院蔵〕
(前略)
一武州松山之城、三楽斎手ニ入候義は、度々之由候、一度ハ謙信北条ヲ為退治、関東発向、房州里見義弘家老正木大膳と拙者親三楽両人、致先手、小田原之城四ッ門蓮池迄押詰、坐城計ニ致シ、関八州も大形 属謙信二候時、松山之城依有 由緒、従謙信親ニ候者ニ給候、然は 河越之城ニは、箱根之源南幷北条上総、為両武主被籠置旨、扇谷管領方之大名共数輩令談合、天文拾四年乙巳九月ヨリ河越へ押寄、翌年四月迄取こめ候処ニ、為後巻、氏康河越え出馬、寄手還而前後ヨリ被取包、日々夜々ノ戦無滞中、親ニ候は、鑓ヲ為合候義及廿四度ニ由申候、雖然四月廿日有合戦、管領方敗北、親ニ候者も手前之人数悉討死、漸々主従九騎ニ罷成、松山へ立帰候へ共、城依難堅メ自焼仕、上野国新田へ取除、高林と申所ニ蟄居、其時分芳賀伊予と申人、北条家無双之勇者、又果報伊美敷者成故、氏康手ニ被入候城々へハ、先彼伊与(予)を被移申由候、然間松山ノ城へも、芳賀伊与守ニ随一之者共余多指添被籠置候之処二、同年八月廿八日之夜、親ニ以者忍入、彼城を乗取、右楯籠者共を或者討取、或者追落、終ニハ遂本望、在々所々掟等平均ニ申付、二度松山ニ令在城候処ニ、三楽斎兄二候信濃守、於岩付ニ病死、実子依無之、彼地え親ニ候者打入候砌、扇谷管領之舎弟七沢七郎、奥州辺ニ流窂候を尋出引取、彼七郎を取立、岩付ヨリよき者弐百騎付、松山之城主ニ仕候処、信玄氏康有出張、被責候砌八、親岩付ニ在之、謙信之後詰を相待候へ共、謙信岩付へ着馬遅うて、松山之城を明渡シ申由候、岩付ヨリ松山へ之通路罷成間敷事を、親兼而存、岩付之犬を松山預ケ置、松山之犬を岩付ニ繫置候儀者、其時之事ニ御座候、其後も又彼城三楽手二入候由候へ共、年号月日失念仕候、其節松山ノ城ニ上田闇礫斎を為留守居頼置候処ニ、無其甲斐、松山之城を氏康へ相渡候、以其忠節、上田一跡ヲ過半闇礫斎二給由候、彼闇礫斎ハ氏康氏政為蒙厚恩人之間、北条を背申義無之由候条、或ハ松山之城を被攻、或ハ追討之沙汰無御座かと承及候、右之段々是又紙面ニに難申尽候事
(後略)
〔読み下し〕
173 (前略)
武州松山の城、三楽斎(太田資正)手に入れ候義は、度々の由に候、一度は謙信(上杉)北条を退治のため、関東発向、房州里見義弘が家老正木大膳と拙者親三楽両人、先手を致し、小田原の城四ツ門蓮池まで押詰め、坐城ばかりに致し、関八州もおおかた謙信に属し候時、松山の城由緒あるにより、謙信に従う親に候者に給い候、しからば河越の城には、箱根の源南ならびに北条上総、両武主として籠め置かる旨、扇谷(朝定)管領方の大名共数輩談合せしめ、天文拾四年(乙巳)九月より河越へ押寄せ、翌年四月まで取こめ候処に、後巻のため、氏康(北条)河越 へ出馬、寄手かえって前後より取包めらる、日々夜々の戦滞りなき中、親に候は、鑓を合せ候義廿四度に及ぶ由申し候、しかりといえども四月廿日(天文十五年)合戦あり、管領方敗北、親に候者も手前の人数ことごとく討死、ようよう主従九騎に罷りなり、松山へ立帰り候えども、城堅めがたきにより自から焼き仕り、上野国新田へ取除け、高林と申す所に蛰居す、その時分芳賀(垪和)伊予と申す人、北条家無双の勇者、また果報いみじき者なる故、氏康手に入れられ候城々へは、まずかの伊予を移し申さる由に候、しかる間松山の城へも、芳賀伊与守に随一の者共あまた多く指し添え籠め置かれ候の処に、同年八月廿八日の夜、親にもっての者忍び入り、かの城を乗取り、右楯籠る者共を或いは討取り、或いは追落し、終には本望を遂げ、在々所々に掟等平均に申付け、二度松山に在城せしめ候処に、三楽斎兄に候信濃守(太田資時)、岩付において病死、実子これなきにより、かの地へ親に候者打入り候砌、扇谷(朝良)管領の舎弟七沢七郎(憲勝)、奥州辺に流窂候を尋ね出し引取り、かの七郎を取立て、岩付よりよき者弐百騎付け、松山の城主に仕り候処、信玄(武田)氏康(北条)出張あり、責められ候砌は、親岩付にこれあり、謙信の後詰を相待ち候えども、謙信岩付へ着馬遅うて、松山の城を明け渡し申す由に候、岩付より松山への通路罷りなるまじき事を、親かねて存じ、岩付の犬を松山に預け置き、松山の犬を岩付に繫ぎ置き候儀に入れ候由に候えども、年号月日失念仕り候、その節松山の城に上田闇礫斎(朝直)を留守居として頼み置き候処に、その甲斐なく、松山の城を氏康へ相渡し候、その忠節をもって、上田一跡を過半闇礫斎に給う由に候、かの闇礫斎は氏康氏政(北条)に厚恩を蒙る人たるの間、北条を背き申す義これなき由に候条、或いは松山の城を攻められ、或いは追討の沙汰御座なきかと承り及び候、右の段々これまた紙面に申し尽しがたき候事
(後略)
〔注〕
(1)太田資正の子資武(徳川家康の子、越前国福井藩主松平秀康に仕える。)が、寛永年間(一六二四〜四四)に太田資宗(江戸太田氏の後裔で、資康・資高・康資・重政・資宗と続き、徳川家康に仕え、後に大名となる。)の求めにより、太田氏の道灌以来の系譜・経緯を岩付太田氏、とりわけ父資正の動向を中心に記述したもので、資宗宛の三通の書状となっている。なお、原本は残されておらず、写本があるのみで、ここでは川島町表の養竹院(甥の資家が道灌追福のため建立)所蔵『太田楽斎家系纂考』所収による。
〔解 説〕
本史料は、太田資武状の中から、松山城関係の条項を抽出したものである。これに、資正と松山城との関係を述べているが、年次を前後させており、天文十五年の河越合戦、永禄四年(一五六一)の上杉謙信小田原攻め、永禄五・六年の松山攻め等の記事も混入しており、全面的に正しいわけではない。河越合戦に上杉方として参戦した資正は敗北し、上野国高林(群馬県太田市)に逃げた。後北条氏の手に落ちた松山城には城代として、譜代重臣の块和(芳賀)伊予守を置いた。八月二十八日夜、資正は奇襲をかけ、松山城を奪還した。再び彼は武蔵国内に足場を築いた。その後、岩付城主の兄資時が死去し実子がないため、同城を奪い移った。本史料では、この時、松山城主に七沢憲勝(扇谷上杉朝良弟)を入れたとあるが、後段の上田朝直(案独斎宗調)が正しく、翌十六年十二月九日のことという(『年代記配合抄』)。朝直はこの後、本史料にも見えるように、後北条氏に内応し、当城は再び後北条氏支配となり、彼は松山衆の筆頭に位置する。しかし、謙信の小田原攻めで、永禄四年秋、再度資正の支配下に入った。この時、城主となったのが憲勝である。そして、同六年二月、北条・武田連合軍により、落城する(史料187)。本史料の松山城と資正の関係を整理すると、以上の如くである。ともあれ、岩付・松山両城を拠点とした、資正の勢力圏は、本市の石戸城・寿能城(大宮市寿能町)等を支城に、南埼玉・足立・吉見・比企・入間各郡に及び、市域はそれに含まれていたのである。

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