北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

元暦元年(一一八四)一月二十日
源範頼は、頼朝の命により弟義経とともに源義仲を滅ぼす。この時、大串重親は、宇治川の徒立ちの先陣として名を挙げる。

57 吾妻鏡 元暦元年一月二十日条
廿日庚戌、蒲冠者範頼、源九郎義経(1)等、為武衛御使、率数万騎入洛、是為追罰義仲(2)也、今日、範頼自勢多参洛、義経入自宇治路、木曽以三郎先生義広、今井四郎兼平已下軍士等、於彼両道雖防戦、皆以敗北、蒲冠者、源九郎相具河越太郎重頼、同小太郎重房、佐々木四郎高綱、畠山次郎重忠、渋谷庄司重国、梶原源太景季等、馳参六条殿(3)奉警衛仙洞、此間、一条次郎忠頼(4)已下勇士競走于諸方、遂於近江国粟津辺、令相模国住人石田次郎誅戮義仲、其外錦織判官等者逐電云々
 
58 平家物語 巻第九・宇治川先陣 〔日本古典文学大系〕
(前略)畠山五百余騎(よき)でやがてわたす、むかへの岸より山田次郎がはなつ矢に、畠山馬の額(ひたい)をのぶか(篦深)にゐ(射)させて、よは(弱)れば、河中より弓杖(ゆんづえ)をつゐておりた(ッ)たり、岩浪(いはなみ)甲(かぶと)の手さきへざ(ッ)とおしあげけれども、事ともせず、水のそこをくヾ(ッ)て、むかへの岸へぞつきにける、あがらんとすれば、うしろに物こそむずとひかへたれ、たそ(誰)ととへば重親(5)とこたふ、いかに大串か、さ(ン)候(さうらう)、大串次郎は畠山には烏帽子子(えぼしご)(6)にてぞありける、あまりに水がはやうて、馬はおしながされ候(さうらひ)ぬ、カ(ちから)およぱで、つきまいらせて候といひければ、いつもわ(我)殿原(とのはら)は、重忠が様なるものにこそたすけられんずれといふまゝに、大串をひ(ッ)さげて、岸(きし)のうヘヘぞな(投)げあげたる、なげあげられ、たヾなを(ッ)て、武蔵国の住人、大串次郎重親、宇治河〔かちたち〕の先陣ぞやとぞ名の(ッ)たる、敵(かたき)も御方もこれをきいて、一度(ど)にど(ッ)とぞわらひける、其後畠山のりか へにの(ッ)てうちあがる(後略)
〔読み下し〕
57廿日庚戌、蒲冠者範頼、源九郎義経等、武衛(源頼朝)の御使として、数万騎を率い入洛す、これ義仲を追罰せんがためなり、今日、範頼勢多より参洛し、義経宇治路より入る、木曽、三郎(志田)先生(せんじょう)義広・今井四郎兼平已下(いげ)の軍士等をもって、かの両道において防戦すといえども、みなもって敗北す、(人名略)六条殿に馳せ参り、仙洞を警衛し奉る、この間、一条次郎忠頼已下の勇士、諸方に競い走り、ついに近江国粟津辺において、相模国の住人石田次郎(為久)をして義仲を誅戮(ちゅうりゃく)せしむ、その外錦織判官(義高)等は逐電すと云々
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〔注〕
(1)源義朝の末子(九男)、頼朝・範頼の異母弟  陸奥国の藤原秀衡の保護を受けていたが、富士川合戦直後に頼朝の下に参加する。
(2)源義仲(木曽義仲)為義の次男義賢の次男で、頼朝の従兄弟。父が源義平(頼朝長兄)に殺された後、信濃国木曽に育ち、以仁王令旨に応じて平氏打倒のため同地で挙兵
(3)後白河法皇の御所で、六条北、西洞院の西にあった(京都市下京区)。
(4)淸和源氏出身で、甲斐国の武田信義の嫡子。父等とともに、以仁王令旨に応じて同国で独自に蜂起
(5)大串重親(重保) 武蔵七党の一つ小野姓横山党出身で、吉見町大串(吉見町大串等)が名字の地である。
(6)武士の元服(成人式)の時、仮親として烏帽子をかぶせ名をつける人を烏帽子親といい、その子を烏帽子子という。
〔解 説〕
前年七月、源義仲等の東国勢は、安徳天皇を擁する平氏を都落ちさせ、待望の入京を果たした。しかし、平氏は西国で巻返しの地歩を固め、一方頼朝は上京することなく関東に地盤を固めていた。折からの飢饉の中、兵糧に窮した入京軍は統制が乱れ人心を失う。後白河院の、武士には武士を対抗させる策の前に、義仲は追い詰められ、十一月、クーデターを敢行し京の実権を掌握した。しかし、彼とともに入京した東国源氏の大半は離反し、義仲は孤立していた。ここに、頼朝は義仲打倒の軍を上京させたのである。
史料57は、源範頼等の指揮する上京軍が京の義仲を攻撃し滅ぼした記事である。また、史料58は、その際、大串重親の活躍を示すものである。頼朝の上京軍は、二人の異母弟範頼・義経を大将軍として、勢多口(滋賀県大津市)・宇治口(京都府宇治市)の両手に分れて京都を攻撃した。義仲は志田義広を宇治口、今井兼平を勢多口に派遣し防戦したが、たちまち破られ、入京した義経は義仲の監視下にあった後白河院を奪還した。史料57は範頼も御所に駆け付けたように見えるが、『平家物語』諸本では河越重頼以下を率いて御所を固めたのは義経のみとしている。義経の旗下で、宇治川渡河一番を競ったのが佐々木髙網と梶原景季であるが、史料58に見るように、大串重親は畠山重忠の馬にしがみついて渡河を果たし、徒立ち(徒歩)の先陣の名を挙げた。このエピソードの中に、当時の武士がいかに先陣に賭けたかが理解される。
義仲は京都から北国に向け近江国へ脱出したが、甲斐源氏嫡流の一条忠頼軍の攻撃を受けた後、粟津(滋賀県大津市)で戦死した。こうして、頼朝軍が京都を制圧し、平氏追討の第一線に立った範頼は、義経とともに大将軍として、二月、摂津国一の谷(兵庫県神戸市)に平氏を敗北させる。

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