北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

天文二十二年(一五五三)五月二十一日・弘治二年(一五五六)三月五日
聖護院門跡は、大行院に上足立郡伊勢熊野先達衆分檀那職を安堵する。ついで、太田資正も安堵する。

177 聖護院門跡御教書写 〔武州文書〕
武州上足立伊勢熊野先達衆分檀那職等之事、任当知行旨、不可有相違趣、被成奉書訖、宜被存知、爰十玉坊(1)号由緒、違乱之条、被相尋之処、於備上覧証文者不慥、万ー明白之文書於致出帯者、重而可被遂御糺明、然者、如近年弥全領知、可被抽奉公之忠切旨、聖護院御門跡所被仰出也、仍執達如件
  天文廿弐年五月廿一日
           法 印(花押)
           僧 都(花押)
   大行院(3)

178 太田資正書状写(折紙) 〔武州文書〕
上足立卅三郷之事、伊勢熊野先達職衆分檀那等之義、不可有御別条之由、聖護院御奉書幷御奉行衆証文明白之上、於資正も不可有相違候、恐々謹言
  引治二年(丙辰) 美濃守
   三月五日    資 正(花押)
    大行院
〔読み下し〕
177 武州上足立伊勢熊野先達衆分檀那職等の事、当知行の旨に任せ、相違あるべからざるの趣、奉書を成されおわんぬ、宜しく存知せらるべし、ここに十玉坊由緒と号し、違乱の条、相尋ねらるの処、上覧に備えるにおいては証文は慥かならず、万一明白の文書出帯致すにおいては、重ねて御糺明を遂げらるべし、しからば、近年の如くいよいよ領知を全うし、奉公の忠切(節)を抽んぜらるるべき旨、聖護院御門跡仰せ出ださる所なり、よって執達件の如し
178 上足立卅三郷の事、伊勢熊野先達職衆分檀那等の義、御別条あるべからざるの由、聖護院御奉書ならび御奉行衆証文明白の上、資正においても相違あるべからず候、恐々謹言
〔注〕
(1)本山派修験の有力道場で、文明年間(一四六九~八七)には新座郡大塚(志木市)にあったが、天文年間(一五三二~五五)には入間郡水子(富士見市)にあった。
(2)天台宗寺門派の総本山園城寺(滋賀県大津市)の門跡寺で、京都市にある。同院は平安後期より熊野三山検校を兼ね、各地の山伏を傘下にいれた。これを本山派修験といい、同院が総本山である。なお、当時の門跡(住持)は道澄(近衛稙家の子、前門跡道増の甥)
(3)本山派修験の道場で、足立郡南下谷村(鴻巣市下谷)にあった。
〔解 説〕
熊野信仰による熊野三山詣でが中世に発展した。この教化に当ったのが御師で、彼等は宿坊を経営し各地の信者を受け入れる祈祷師であった。この手足となったのが先達で、彼等は山伏で各地の檀那(信者)を熊野へ案内引率し、

本山

御師

先逹

檀那

の組織化により、熊野詣では全国に拡大した。檀那は、特定の氏族・地域毎に組織化され、縄張として、先達の権利所職となった。これが檀那職である。室町期に入り、在地にある先達が地域の檀那を組織化するのが、活動の中心となる。地域毎(ほぼ郡単位)に檀那占有権を認可する年行事職を聖護院は設置し、これに地域内の最有力の平山伏(平地在住)を任免した。かくて、

聖護院

年行事職

平山伏

檀那

の系列となる。
史料177は、聖護院が隣郡の十玉坊の主張を否定し、上足立郡先達衆分檀那職(年行事職)を大行院に安堵したものである。同日、下足立郡同職を玉林坊(浦和市中尾)に安堵しており、前後の時期に当国内で年行事職を安堵した聖護院御教書が数通残されており、同院の積極的な活動ぶりがわかる。
史料178は、太田資正が上足立郡三十三郷伊勢熊野先達分衆檀那職を大行院に安堵したものである。文中の「聖護院御奉書」は史料177を指す。彼が聖護院支配下にある年行事職の安堵を改めて行ったのは、本山派修験を自己の統制下に置き、一円的領域支配を貫徹せんと指向したことによる。岩付領の最高権力者は城主太田資正であることを示している。修験者は、山野河海を自由に動き、各地の情報収集・伝達に欠くことのできない存在であり、領主に保護されていたのである。同年十一月二十九日、下足立玉林坊にも旦那役を安堵している(武州文書)。なお、上・下足立郡の呼称は室町期に始まり、境は大宮付近とされた。

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