北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

弘治三年(一五五七)四月八日
太田資正は、道祖土図書助に、比企郡三尾谷郷の伝馬出役の百姓の田地指上の禁止を命ずる。また同日、足立郡赤井坊の寺領を安堵する。

179 太田資正判物(折紙) 〔道祖土文書〕
三尾谷郷(1)伝馬儀付而、田地指上百姓有之者、可及其断、罍(2)義ハ可為田地役候、謹言
    弘治三年(丁巳)
     四月八日    資正(花押)
         道祖土図書助殿

180 太田資正判物写(折紙) 〔武州文書〕
寺領之儀被申上候、任前代為新寄進付置候、為其一筆進候、恐々謹言
    弘治三年(丁巳)
     四月八日    資正(花押)
         赤井坊(3)
〔読み下し〕
179 三尾谷郷伝馬の儀に付きて、田地指上ぐ百姓これあらば、その断に及ぶべし、罍の義は田地役たるべく候、謹言
180 寺領の儀申し上げられ候、前代に任せ新寄進として付け置き候、その一筆として進らせ候、恐々謹言
〔注〕
(1)比企郡三尾谷郷は現在の川島町三保谷周辺
(2)罍は、地罍の略で、余地を意味するか。
(3)閼伽井坊とも書き、伊那町小室の真言宗無量寺の前身。足立郡小室郷丸山(同町小室)にあったが、寺地が近世初頭に関東郡代伊奈氏の陣屋となったため、現在地に移転した。
〔解 説〕
ここに所載の二点の史料は、本日付の太田資正判物で、彼の支配の実態を示している。史料179は、比企郡八ツ林の道祖土図書助に対して、同郡三尾谷郷への伝馬役(伝馬提供とこれに伴う労役賦課)に関して、農民の田地差上げの禁止を命じたものである。伝馬役負担を逃れるために農民は田地を放棄していたのである。岩付領内でも伝馬の整備・維持がなされていたことが分る。なお、同郷は河越城から石戸城への街道に位置しており、宿駅が置かれていた。史料180は、足立郡赤井坊の寺領を安堵したものである。当坊の地は後に伊奈氏陣屋になったように、郡内の要地であり、岩付城と石戸城を結ぶ線上の中問に位置していた。以上により、資正の領域支配は、足立・比企両郡に及んでおり、支配内容も、独立した戦国大名的な性格を有していた。岩付城主太田資正は、後北条氏に帰伏したとはいえ、独自の領域支配を深化させ、戦国大名化への道を進もうとしたのである。

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