北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

永禄二年(一五五九)三月二十四日
太田資正は、大島大炊助に、郷内の開発を深井氏と相談して行うよう命ずる。

183 太田資正判物 〔大島文書(1)〕
当郷打明之事、其方深井(2)致談合可為開候、郷中百姓等、無菟角可為入籠也
        (福禄寿ノ逆字)
   永禄弐年(己未)
      三月廿四日 (太田資正) (花押) 
            大島大炊助(3)殿
〔読み下し〕
183 当郷打明けの事、その方深井と談合致し開かせべく候、郷中の百姓等、菟角なく入り籠ませべきなり
〔注〕
(1)足立郡宮内村(本市宮内)旧家勇蔵家(大島氏)伝来の古文書で、宮内の大島隆三氏所蔵
(2)実名不詳 深井氏は、白井長尾景春の孫景孝が足立郡深井村(本市深井)に生れ、同氏を名乗ると伝える。同村の地侍である。
(3)実名不詳 大島氏は出身不明で、宮内村の地侍。後北条氏滅亡により、同村に帰農する。
〔解 説〕
本史料は、岩付城主太田資正が、大島大炊助に対し、深井氏と相談して「当郷」の開発を行うよう命じたものである。ここにいう、「当郷」とは、大島大炊助の知行地とはいえ、共同開発にあたるのが隣接の深井氏であることから、足立郡宮内村、すなわち本市宮内であることがわかる(史料183参照)。資正から開発命令を受けた彼等は、岩付太田氏の家臣である。ここに、市域に在住する岩付太田氏家臣の存在が確認でき、市域は太田氏の支配領域だったことが理解される。かくて資正は、地侍級家臣に領内開発を命じ、領域支配の強化を図っていた。なお、本史料の朱印は後の作で、資正のものではない。

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