北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

永禄五年(一五六二)七月十六日
太田資正は、足立郡石戸の駒場・比企郡八林の深谷民部分を、道祖土図書助に安堵する。

186 太田資正判物 〔高柳文書(1)〕
八林(比企郡)之内、深谷民部分任申出置候、幷先年於石戸親ニ出候野場之事、不可有相違候、猶以可抽走廻之事、簡要候、謹言
  永禄壬戊(戌)
    七月十六日    資正(花押)
      道祖土図書助殿
〔読み下し〕
186 八林の内、深谷民部分申すに任せ出し置き候、ならびに先年石戸において親に出し候、野場の事、相違あるべからず候、なおもって走り廻りを抽んずべきの事、簡要に候、謹言
〔注〕
(1)浦和市前地の高柳悦三郎氏所蔵。ただし、これは旧埼玉県史古文書調査票によるもので、現在は行方不詳
〔解 説〕
本史料は、太田資正が足立郡石戸郷の「野場」と比企郡八林郷内の深谷民部分を道祖土図書助に安堵給付したものである。史料169で述べたように、道祖土氏は八林郷の土豪で岩付太田氏の家臣である。本史料にある石戸の「野場」とは、旧新井村駒場(本市荒井)を指すものと思われる。したがって、本史料は荒井村が石戸郷に含まれていたことを示している。「親に出し候う」とあるので、図書助の先代の時、駒場は道祖土氏に給付されたことになる。また、この時期にこうした安堵がなされたのは、後北条氏の松山城奪回の攻勢と関係して、岩付太田氏支配の内部固めの意味か、或いは道祖土氏に代替りがあったのかもしれない。ともあれ、木史料は、岩付太田氏が市域に支配力を及ぼし、その家臣の道祖土氏が駒場に所領を有していたことを示すものである。

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