北本市史 資料編 古代・中世

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第3章 城館跡・金石資料・仏像

第1節 城館跡

1 堀ノ内館跡

              (大字石戸宿字堀ノ内)
この館跡は、「石戸の蒲桜(かばざくら)」で有名な東光寺の境内一帯にある。当所には、国認定重要美術品の板石塔婆「貞永の碑」や、源範頼(みなもとののりより)の墓と伝える五輪塔など、中世前期の遺物が豊富に存在し、江戸時代の『玄同放言(げんどうほうげん)』(北本市史第四巻近世資料編参照)や『遊歴雑記(ゆうれきざつき)』(北本市史第四巻近世資料編参照)などにも紹介されている。しかし、館跡の明瞭な遺構が少ないために、その築造年代や規模・形状など不詳の点が多い。この項では、現地踏査、聞書き、若干の発掘調査の記録及び地誌類などの紹介文を収録して考察したい。
立地 堀ノ内館跡が所在する石戸宿は、大宮台地の西北部に位置する。この地域は、大宮台地のなかでも樹枝状の谷が最も発達しており、複雑に枝分かれする深くて狭長な開析谷を、低平な台地に刻み込んでいる。堀ノ内館が造営された最大の立地条件としては、このような地形上の特徴をあげることができる。堀ノ内館跡は、荒川低地から東に入り込んで南東方向にのびてくる二本の樹枝状谷の谷頭部近くにあって、その開析谷をうまく利用しながら立地している。

図1 堀ノ内館跡縄張り推定図

館跡の大部分の地域は台地上にあって、その高さは標高二〇〜二五メートルある。館跡の南側の谷(A谷と仮称)の底面は一七〜一八メートルあり、谷幅は約七〇メートルある。谷筋はさらに東にのび、浅くなりつつはあるが、東方約三〇〇メートルで北へ曲がって台地谷となっている。館跡の北西辺に谷頭部をのばしてきている谷(B谷と仮称)は、底面の標高が一九メートル、谷幅六〇メートルである。A谷とB谷の谷頭部までの距離は約一五〇メートルである。 荒川の流方向とは逆行する。これら二本の谷は、同一支谷から派生したもので、その出口は石戸城跡の北側にあって、堀ノ内館跡からここまでの距離は約七〇〇メートルある。
このようにして、堀ノ内館跡は、広大な荒川低地にはその面する谷の出口がつながってはいるものの、台地内部に隠れるように存在している。この立地のありかたも堀ノ内館跡の特色といえよう。
縄張り 縄張りとは、館や城をとり囲む土塁や堀の形や構成をいう。昭和四十七年に刊行された『北本市の埋蔵文化財』では、囲郭の形態は正方形に近い縄張りで、城域は約一万平方メートルと書かれている。しかし、その後、北本市教育委員会の発掘調査で、外堀の一部とみられる堀跡が発見されたり、文化財保護審議委員会の調査により館跡の絵図が発見されるなどして、かなりの程度館跡の全体像を推定することができるようになった。
それらによれば、堀ノ内館跡は中心方郭、二重三角囲郭であった可能性がつよい。すなわち、中心部に方形の本郭があって、その外側に二ノ郭、三ノ郭が南側の開析谷を底辺として三角状に取りまいていたようである。全体の大きさは、東西(南辺)約四〇〇メートル、南北三五〇メートル、面積は約一一万平方メートルと推定される。加えて、南側の谷が東側にまわり込んでいる部分を外巻き堀と見なせば、この倍くらいの面積になる。
各郭ごとに説明をすると、内郭と推定される部分は、小字名「堀ノ内」の中心部分であるが、地上遣構があるわけではなく、地割や家屋の向き・配置状態からの推測で、東西一二〇メートル弱で北辺はやや広い。南北は九五メートルである。南辺は東光寺に通ずる道で限られていたものと推察される。
二の郭と推定される部分は、南辺を東光寺境内と浅間神社を結んだ線にあり東西約ニ一〇メートル、南北二六五メートルの不整三角形で西側が少しふくらんでいる。この北端部の小林進氏宅の裏側には土塁と堀が残存し、堀の窪みは石戸神社の南側にまでのび、その南端は浅間神社の東方七五メートルにまで達しているものとみられる。それは、地割の方向からも推定される。
三の郭の外郭線は、南側の谷を南辺として、東光寺境内の西側をまわり、北側の谷の谷頭部をとおって、昭和六十一年の発掘調査で発見された堀に達するものと推定される。発掘で発見されたこの堀は、三の郭の北側を頂部とし、この頂点から道沿いに(南々東へ)南下し、カネヅカンチと呼ばれる小林進氏宅の東側を経て地割方向に南下して、南側の谷に到る。この三の郭の南端部には谷の湾入がある。
この館跡は、西側と南側は泥深い谷を要害として立地しているが、陸地続きの北側と東側は防衛上弱点となっている。このため北側と東側には深い堀と土塁をめぐらしていたわけであるが、さらに防禦上の安全度を高めるために、三の郭の外側に外巻き郭を設けていたのではないかと想定される。それが、メディカルセンタ—用地内で発見され昭和六十一年に発掘された東西方向の堀であろう。これは三の郭の堀ほど大きいものではないが、あたかも北側の谷と、もう一本北側の谷とを結びつける目的のものである。そうすれば、東側の台地谷も生きてきて、加工して外巻き谷の役割を果たすことができたであろう。この外巻き郭の外郭線までを含めると、規模は東西五五〇メートル、南北約六〇〇メートルの三角形の広大な領域となる。
以上は、地形や残存遺構、発掘調査などから堀ノ内館の縄張りを推定したものであるが、これから紹介する資料は、文化財保護審議委員会の調査によって発見された、明治初期に描かれた堀ノ内館跡の絵図(写真1)である。それは当所の石戸神社に所蔵されている『石戸神社御獅子箱蓋裏絵図』である。この獅子箱には、安政五年(ー八五八)九月吉祥日、石戸神社に奉納された旨を銘記しているが、その蓋裏に同神社の建立由来や祭神、鎌倉暁将石戸左衛門尉の「石戸荘石戸館」の絵図が、上のように描かれている。

写真1 石戸神社御獅子箱蓋裏絵図

館跡の絵図は、簡易な墨書きの図であるが、館の形態を復原するうえで非常に参考になる。この図によれば、中心部に方形に区画した「館迹」があり、その外側を「内濠」と「外濠」がほぼ円形にとり囲んでいる。内堀内には、「正門・東光寺・浅間大神・諸州二神・八幡大神」が記されているが、それらの位置関係は現存するもの、および聞き書き調査で確認されたものとほぼ一致している。「館述」の部分は、想定した内郭にほぼ一致し、「内堀」が二の郭の堀に、そして「外堀」が三の郭の堀に該当するものであろうが、形態が円(まる)すぎる。しかし、これは測量に基づく図ではなく、略図であるための相異にすぎない。
遺構について(聞き書き) 石橋跡は堀ノ内館の正門(大手門)に当たると伝えられ、館の南側を画する谷の北縁を流れる用水路に近年までかけられていたという。橋の石材は、安山岩の切り石で五本あったといわれ、後に用水路の側溝整備により移転されたが、現在堀ノ内集会所にそのうちの四本がベンチとして利用されている。この石橋跡の東隣は、かつての用水の水がたまってできた約六六平方メートル(二〇坪)ほどの池があったといわれ、そこを「精進場(しょうじんば)」と呼んでいたという。その由来は失われているが、浄めもしくはお籠(こも)りを行う所であったと思われる。昭和のはじめころまでは、雨乞(あまごい)が行われる場でもあったらしい。なお、石橋および精進場付近より北へ向かう道は、旧堀ノ内村の草分けと伝えられるオキンチ(奥の家、小林進氏宅)まで一直線にのび、反対に南へたどれば旧川田谷村境までのびている。この道は館が機能した時期以来の旧道の可能性もある。
「番坂」は石横跡から西方へ約二〇〇メートルの地点であり、現在消防小屋がある付近の坂をいう。現在ではなだらかな直線の道となっているが、以前は消防小屋の裏手を巻くS字状の坂で、荷車を上げるのに一苦労するほどであったという。
「宝塚」は、小林進氏宅の北東の山林にあり、五×二メートル、高さ四〇センチほどの不整楕円形を呈している。塚上には「三宝大荒神」「石宮□□ 天保十四卯十一月吉日 願主小林氏」の銘を刻む石祠二基が並んで立っている。宝塚の由来については、『玄同放言』に書かれているように、小林氏の先祖が慶長年間、範頼ゆかりの相伝の武器、調度、旧記を火災で焼失し、その灰を埋めて塚を築いたとも、また、範頼が殺された後に範頼の持ち物を埋めた、また石戸城が焼けた時、焼けた宝の灰を埋めたなどとも伝えている。また、小林家の西側には八幡神社が祀られていたという平場が残っており、そこを「宝塚八幡」または「灰塚八幡」と呼んでいたという。
「カネ塚」は小林勝氏宅の北側、現在の消防小屋付近にあったという。また同家の南隣の高松時充氏宅はカネヅカンチという屋号で呼ばれている。この「カネ」が何を意味するのか、金・鐘・鍛冶などの関連も追及しておく必要がある。
「御茶屋跡(おちゃやあと)」については、聞き書きでは明確にできなかったが、『正保年中改定図』には石戸町に隣接して「茶屋」が記されている。徳川家康ゆかりの地として、街道筋において話題になった所という。(以上、石戸宿壱四一八 高松正一氏談)
遺構確認調査 No.1 館の北部から北東部を円弧状に画する堀で、昭和六十一年度、市教育委員会の発掘調査で検出されたものである。断面は上幅五・三メートル(約三間)、底幅一・三メートル(四尺)、深さ二・三メートル(一間二尺)ほどの規模で箱薬研(はこやげん)形を呈する。北端は北部からの狭長に遡行する枝谷の谷頭部に続く。ここから南東部へ 二〇〇メートル余りの区間は検出されているが、南端は明らかでない。
No.2 消防小屋に北接する笹藪の中に遺存している。四×三メートルほどの窪地で、No.1より南へのびる堀跡の一部と考えられる。
No.3 No.1の堀に平行してのびる堀跡で、後述するNo.4の土塁とともに表面観察で明確にできる遺構である。小林進氏宅の北側から南東方の小林喜三郎氏宅の北側付近まで約一五〇メートルにわたって確認される。地元では堀跡に沿った雑木林をウチボリヤマ(内堀山)と称している。山搔きなど林が管理されていた時代には、石戸神社へ通じる道として利用していたとのことである。
No.4 No.3の堀跡に沿って遣存する土塁で、やはり小林進氏宅から石戸神社北側付近まで確認される。内側の平坦面との比高は概ね一メートルほどであるが、石戸神社北側の土塁南端部分は幅広で比高も二~三メートルと高まっており、櫓台(やぐらだい)跡ではないかとも推定される。
No.5 No.3の堀跡の外側に位置する土塁状の遣構で、長さは五メートルほどである。北端は切り取られて断面が露出しており、南端は緩やかに傾斜している。また、北端とNo.4の土塁南端の間には、No.3の堀跡を横断するように石戸神社に通じる小径が存在するが、両土塁を「喰い違い」の虎口(こぐち)形態として考えれば、小径下に土橋が存在した可能性が考えられる。

図2 堀ノ内館跡(第1次・第3次)航空写真測量図

No.6 No.5と同様に小径をはさんでNo.4の土塁(北端)と「喰い違い」状に位置する土塁状遺構である。やはり土橋の存在を想定できよう。北西方へのびる部分は農事試験場官舎の造成時に削平されたものと思われる。
No.7 No.6の土塁の延長上にある土塁の遣構である。幅広で不整形を呈しているのは、破壊されたためであろうか。
No.8 No.3の堀の延長上にあるもので、その中途は農事試験場官舎の造成時に破壊されたものであろう。西端はNo.1の堀と同様に、北部から狭入する枝谷の谷頭部に続いているもののようである。
No.9/No.10 高橋勇氏宅北側および、そこから八幡社跡地へ通じる小径の北側に沿って確認された土塁状の遺構である。L字状にのびているが、宅地もしくは道路の造成時の盛り土である可能性もある。

図3 堀跡

1.暗褐色土(黄褐色ロームブロック・黒色ブロックを含む。非常に固くしまっている。粘性無。)
2.黄褐色土(ロームの2次堆積。)
3.暗褐色土(ローム小粒を多量に含む。非常に固くしまっている。粘性少。)
4.灰緑色土(ロームブロックを若干含む。ローム小粒及び黒色小粒を多量に含む。非常に固くしまっている。粘性無。)
5.暗茶褐色土(ローム小粒を若干含む。しまっている。)
6.暗茶褐色土(ロームブロックを若干含み、ローム小粒及び黒色小粒を多量に含む。柔かい。粘性少。)
7.暗茶褐色土(ロームブロックを若干含み、ローム小粒及び黒色小粒を多量に含む。しまっている。粘性少。)
8.茶褐色土(ローム小粒を少量含む。柔かい。粘性少。)
9.暗茶褐色土(ローム小粒を少量含む。柔かい。粘性少。)
10.暗茶褐色土(ローム小粒を若干含む。柔かい。粘性少。)
11.茶褐色土(しまっている。粘性少。)
12.暗茶褐色土(柔かい。粘性少。)
13.暗茶褐色土(ロームブロックを若干含む。ローム及び黒色土を含む。柔かい。粘性少。)
14.暗茶褐色土(柔かい。粘性無。)
15.暗茶褐色土(柔かい。ボソボソ(木の根等あり)。粘性無。)
16.暗茶褐色土(柔かい。粘性無。下位より巻上げられた少量の火山灰を含む。)
17.茶褐色土(ローム小粒を若干含む。しまっている。粘性少。)
18.黒褐色土(ローム小粒を若干含む。しまっている。粘性少。)
19.暗茶褐色土(火山灰(Ø1㎜±,軽石質的)を含む。柔かい。粘性少)
20.暗茶褐色土(しまっている。粘性少。)
21.暗茶褐色土(ローム小粒を若干含む。しまっている。粘性少。)
22.暗茶褐色土(ローム小粒を若干含む。しまっている。粘性少。)
23.暗茶褐色土(ローム小粒を若干含む。しまっている。粘性有。)
24.暗茶褐色土(ローム小粒を若干含む。しまっている。粘性有。)
25.黒色土(しまっている。粘性有。水分が多い。)
26.暗茶褐色土(しまっている。粘性有。水分が多い。)
27.暗茶褐色土(ローム小粒を含む。柔かい。粘性大。水分が多い。)
28.暗黄褐色土(柔かい。粘性大。水分が多い。)

東光寺境内所在の石造文化財 樹齢七〇〇年といわれる蒲桜の根元には、貞永の碑をはじめ多くの板石塔婆が所在していた。これらは、桜幹にはさまれた板碑を除き、現在は境内に収蔵庫を建設して移設した。詳細については、第二節「金石資料」の項を参照されたい。
また、蒲桜の根元には五輪塔とも層塔ともいわれる石造物があった。これは、『玄同放言』では「五輸の古碑」と記され、『新編武蔵風土記稿』では「五輪塔」と記されているが、実際は層塔と分類するのが正しいであろう。このことについては、金石資料の項で詳述しているので、そちらを参照されたい。
地誌・古文書類 堀ノ内館跡について記述した主な地誌類や、この付近の土地に関する古文書には、つぎのようなものがある。
『武蔵志』 福島東雄 享和二年(一八〇二)以前の著(第四章 参考資料「記録・系図等」の項参照)
『遊歴雑記』 津田大浄 文化九〜文政十一(一八一二~一八二八)年の著(北本市史第四巻近世資料編宏照)
『新編武蔵風土記稿』 巻百五十一 間宮士信等 文化七~文政十一(一八一〇~一八二八)年(第四章 参考資料「記録・系図等」の項参照)
『玄同放言』 滝沢馬琴 (北本市史第四巻近世資料編参照)
『高松家所蔵文書』 当所の高松光氏宅では、次のような古文書を所有している。

  高松家所蔵目録
番号年月日西暦表題備考
天保一四・二一八四三御□地坪割帳慶長三年の写し
嘉永七・四一八五四万内入ノ通
元治元・六一八六四御神輿再興仕要咨
明治八・一〇一八七五道中杭取調帳
明治九・五・二八一八七六新反別村方統計文乎控記
明治九・一〇一八七六地租改正堀之内耕地名奇簿(ママ)
不詳石戸村石戸宿堀之内耕地略図
不詳大番字堀之内耕地
以上の文書のうち、一の「御口地坪割帳」は慶長三年の坪割帳を天保十四年二月に書写したもので、近世初期の地名及び館にかかわる地名を知るうえで参考となる。以下、その地名を列記したい。
堀之内村・大門坂下・播ゾイ・大門・内堀山・八丁(内)・西木山無量院東光寺(跡)・坂下・白山社・八幡社・稲荷社・浅間社・天王社・金比羅社・東カ子イ塚・南精進場・邑中道・中道・精進場・辻・カ子イ塚・太郎塚馬道・浅間森下・上の台馬道・新田前・馬道字向イ前・四ッ辻・八幡入口・字沖・字松原山下・諏訪山・原・字下の山・字外山・堂の前山・下山・前地・後山・浅間山・外堀山・白山東脇山・堀山・西脇山・東脇山・堂前・前久保・精進場山・後外堀山・後外山・下の山・後竹山・東脇


東光寺の文化財 東光寺は時宗の寺院で、川越東明寺の末寺である。『新編武蔵風土記稿』には阿弥陀堂と見える。西亀山無量院東向寺とも号し、開基は頼朝の弟源範頼とも、石戸左衛門尉とも伝えるが、その真偽のほどは明らかではない。
当時の阿弥陀堂内には、鎌倉時代末期ころにさかのぼる銅造阿弥陀如来坐像をはじめ、本尊の木造阿弥陀如来坐像ほか、数々の伝世品が所蔵されている。これらの仏像については、仏像の項を参照されたい。
市史編さん室が平成元年に調査した、当寺所蔵の位牌についての調査結果は、つぎのとおりである。
№1銘 文正治元己未年全 高  二三・九cm
黄葉早秋大姉最大幅  一一・三cm
七月十二日
形 態廟所型 
№2銘 文正治二庚申年全 高  三三・〇cm
教頼前明厳大居士最大幅  一〇・三cm  
二月五日
(裏面) 蒲殿 施主 高松氏
形 態廟所型
№3銘 文正治二庚申年全 高  三五・八cm
還旧亡将源範頼明厳大居士
ロ月五日 隠去最大幅  一九・八㎝
形 態札型
№4銘 文貞永元甲年全 高  二七・二cm  
高松院善信観光居士最大幅  一一・五㎝
二月十六日
形 態札型
№5銘 文文政七甲申全 高  三二・〇cm 
皈西値仏妙心禅女霊位最大幅   八・八㎝
六月廿六日
形 態札型  
東光寺阿弥陀堂内には五基の位牌が確認された。これらのうちNo.10亀御前、No.2・3は源範頼、No.4は範頼の家臣であり堀ノ内の草分けでもあると伝わる高松三郎左衛門のものとされている。No.5については伝承を伴っていない。
さて、No.1には正治元年七月十二日、No.2・ 3には正治二年二月五日、No.4には貞永元年二月十六日とそれぞれ鎌倉時代初期の年号が刻されている。位牌の造立された時期についておおよその見当をつけるとすれば、年号と干支の書式パターンからして、いずれも近世期以降の所産であると考えられる。そのうちNo.2は唐様の頭部に円相(上半欠失)と雲首を刻しており、比較的古式の様相を呈する。同じ範頼の位牌であるNo.3はNo.2の造作以後のものであろう。刻字しているNo.1~No.3はやはり古く、江戸時代初期である可能性はつよい。
No.1は上部を失っており全容が不明であるが、牌身の形態がNo.2のものと類似しており、あるいは両者が対であった可能性もある。また現在上部には、他の部分品である疑いももたれるが、慶長頃の特徴とされる竪蓮子を刻した格狭間が付属している。
位牌における編年研究の現状からすれば、これらの位牌にそれぞれの造立年代を与えることは難しく今後の課題としたいが、廟所型のNo.1・2は近世中期、札型のNo.3・4・5は近世後期頃の造作ではないかとの予想を述ベておきたい。仮にNo.1・2の造作が近世初期頃にさかのぼるとすれば、源範頼・亀御前の伝承を遡及しえる最古の物質資料になるといえよう。
年代及び居館者 堀ノ内館跡として想定復原される三の郭(十外郭)の規模と縄張りは、当然、館として使用された最後の、もしくは最大の規模を有したときの姿である。一般に城館跡の発達史は、単郭→複郭→多郭へと変化したものといわれ、単郭のものは館、複郭のものが館城(やかたしろ)、多郭のものが城または城郭と分類されている。この分類にしたがえば、堀ノ内館跡の全体的な形は館城の形態に属するといえよう。また、平城・平山城・山城という分類にしたがえば、平城に属するといえよう。このような囲郭の規模や形態から考えると、堀ノ内館跡の最後の時期は、南北朝時代をくだらないものと推察される。
つぎに、堀の断面から時代性を推定することも可能になりつつある。昭和六十一年度に発掘された三の郭の堀は、箱薬研形をしているものの法面(のりめん)が急勾配である。とくに下部の法面が乖直に近いほど掘られている堀は、より古式のものと考えられ、このような類例としては、川越市上戸の河越館跡西辺の堀や東松山市石橋の青島城跡の三の郭内に見られた。これらにくらべると、堀ノ内館跡の堀は少し浅い。こうした類例を参考にすると、堀ノ内館跡の三の郭の堀は鎌倉時代の後期から南北朝時代の前半期の特徴を示していると理解される。
したがって、堀ノ内館の使用が廃棄された年代は、鎌倉時代の後期から南北朝時代の初期の間に位置づけることができる。すなわち、今から約七〇〇年前の十四世紀前後と推定されよう。
いっぽう、堀ノ内館跡の創築の館の規模は、中心の方形の郭ないしはせいぜい内堀と伝えられた二の郭の範囲内であったと思われる。平安時代後期から鎌倉時代にかけての館の規模は、一般に一町〜二町の広さであるので、堀ノ内館の本郭・二の郭の広さは、ほぼその規模に匹敵する。したがって、その創築(築城)の年代は、範頼伝説や板石塔婆なども考慮して、平安時代後期ころと推定することができるが、その根拠がやや薄弱であるので、今後、有効資料の発掘がのぞまれる。
ところで、居館者が誰であったか考えてみよう。平安時代の後期といえば、大宮台地の中部から南部にかけては足立氏が有力武士として登場し、そして北部には安達氏が羽振りをきかせていた。しかし、石戸地方は両勢力の中間地帯にあったため、両氏からの影響をさほど受けない当地方の土豪が最初の館を築成したものと考えられる。この地方には、平安時代前期の遣跡は少ないことを考えれば、この土豪は開発名主の性格がつよく、この段階での館の規模は、おそらく 一町方郭(一一〇メートル四方に土塁や堀で囲まれた区画)くらいであったであろう。
それが、平安末期〜鎌倉初期になると、二の郭を増築して約倍の規模となったのであろう。その理由は、「貞永の碑」の主人公とされる源範頼が居館したと伝えられる時期に一致するからである。
伝承によれば、貞永の碑は「蒲冠者(かばのかじゃ)」源範頼の供養碑といわれるが、範頼は建久四年(一一九三)八月、伊豆修善寺で頼朝に殺されたことになっているので、貞永元年(一二三二)とは遅すぎる供養であり、不自然である。源範頼は、源義朝の六男として遠江国(とおとうみのくに)池田宿の蒲御厨(かばのみくりや)で生まれたことから蒲冠者といわれ、平治の乱(一一五九)に義朝が敗れたとき、比企禅尼(ひきぜんに)に助けられ、比企郡吉見村御所(ごしょ)で育てられたと伝える。頼朝挙兵後、平氏追討の武将となり、弟義経とともに元歴元年(一一八四)源義仲を破ったのち一ノ谷に平氏に大勝して三河守に任ぜられた。その後も、中国から九州に遠征し、平氏滅亡の大勲功をたてたが、逆にそれが頼朝の不快を買うところとなり抹殺されたのであった。
範頼が育った吉見町御所には、範頼館跡(息障院という寺の境内)が残存している。ここは、堀ノ内館跡とは直線距離にして約五キロメートルの近さである。亀御前との恋物語も伝わっているなど、範頼縁故の地となったことは十分考えられる。たとえ、範頼が居館しなかったとしても範頼の子孫は代々吉見氏を名乗っていたことからも、範頼や吉見氏の縁者が堀ノ内館に居館した可能性も十分あり得る。それは、館跡の占地状態をみても、荒川低地(吉見)側を防衛するような方向に囲郭を構えていることからもうなづけるところである。おそらく、堀ノ内館の居館者は、比企氏や吉見氏と親縁関係を結んで、大宮台地の武士・土豪と対立関係にあったものと考えられる。
石戸左衛門尉が現れるのは、その後の時期である。彼のことについては、『吾妻鏡』の寛元四年(一二四五)八月十五日の鶴ヶ岡八幡宮で行われた放生会の条に、将軍頼嗣に従って江戸六郎・河越泰重・足立太郎左衛門尉直元らとともに出席した旨が書かれている。『新編武蔵風土記稿』によれば、石戸左衛門尉の居跡なりともいうように、彼が居館していたことは確実であろう。それは地名・残存する板石塔婆・石塔・仏像などといい、鎌倉の有力御家人の館として遜色のない構えである。弘安・永正・文応等の板石塔婆は、彼およびその子孫の供養碑であろう。左衛門尉の支配地は石戸宿を本拠として、高尾・川田谷・日出谷・大石・平方など大宮台地西縁の村々に及び、農業生産とともに荒川の舟運にも深く関与していたことをうかがわせる。
石戸氏は、鎌倉時代前期から南北朝時代初期までここを居館としていたことはほぼ確実であるが、石戸城の築城とともに廃館されたものと推測される。

写真2 堀ノ内館跡航空写真(石戸宿)

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