北本市史 資料編 古代・中世

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第3章 城館跡・金石資料・仏像

第2節 金石資料

1 板碑

(三) 市域で最も古い板碑と新しい板碑
1 最も古い板碑
市域で最も古い板碑は東光寺(石戸宿)の15-01である。高さが一六〇センチ、上幅六五センチ、下幅六三センチ、厚さは上部で一三センチ、下部で一八センチ、(いずれも地上露出部測定値)威風堂々とした量感あふれる板碑である。頂部は平らである。円形と半円形をくみあわせた帯をめぐらし、碑面を三つに区画している。上段の区画にはキリーク、中段の区画にはサ・サクを配している。三尊ともに月輪を伴っている。下段には「光明遍照(こうみょうへんじょう)十方世界(じっぽうせかい)念仏衆生(ねんぶつしゅじょう)摂取不捨(せっしゅふしゃ)」という『観無量寿経』の「第九真身観」からとった偈と、「貞永二年(一二三三)大才癸巳正月七日」の紀年号が入っている。偈(げ)は偈頌(げじゅ)ともいい、経文などの韻文詩を歌詞とする声明、およびその詞で七言または五言四行の漢文体が原則である。市域には九種類の偈が十八基に見られる。最も多いのがこの偈で八基に見られ、室町前期まである。県内最古、つまり日本で一番古い板碑として注目されたが、昭和十年に大里郡江南町で「嘉禄三年(一二二七)銘阿弥陀三尊図像板碑」が発見され、最古の席を議った。現在は安貞二年(一二二ハ)銘板碑、寛喜二年(一二三〇)銘板碑に次いで県内で四番目の古さに位置している。最古の嘉禄三年銘板碑より寛喜二年(一二三〇)の第三位まですべて江南町に所在しており、目下のところ板碑は江南町で発生したものである。北本市とは荒川を挟んだ対岸の吉見町の観音寺に県内第五位の貞永二年三月銘の板碑が所在しており、寛喜二年の後三年を経て北本市周辺に板碑が波及したのである。

図3 東光寺貞永二年銘阿弥陀三尊種子板碑(15-01)



         サ 月輪   光 明 遍 照
   キリーク月輪       十 方 世 界
         サク月輪   念 仏 衆 生
                摂 取 不 捨
           貞永二年大才芖巳正月七日



 頂部が平らであることと、円・半円を巡らした帯が何を表現したものかというニ点について、発見以来論議が絶えない。頂部については「水平説」、「もとは山形をなし、二条線もあったものが なんらかの意図のもとに削除した」とする説や、「もとから平らで、上から笠状のものがかぶせてあった」とする説である。もし、笠が載っていたとすれば、板碑ではなく笠塔婆であり、ことは重要である。普段は埋没していて見られないが、下端部の観察では頂部と全く同一整形手法であり、当初より平らであったものと認識される。笠の有無については、带状区画より上部の空白帯が幅狭く、笠を載せるようには造られていない。笠が木製ならばともかく、笠石をかぶせるときわめて不安定で危険な状態になってしまう。当初より平なだけの異形の板碑とする。円・半円とをめぐらした帯状区画については「散蓮華」説、「幢幡」説、「額縁の金具即ち鎭の様なもの」その説を発展させた「堂の扉の金具」説がある。扉の金具説は半肉彫り板碑の彫り込みを石龕(せきがん)と見立てる説と一体をなしている。諸説あるが、未だ定説をみない。
 紀年号のうち「大才」は県内最古の嘉禄三年銘板碑にすでに見られ、市域では六基にみられる。鎌倉期に多くもちいられる表記である。「正月」の表示は県内最古の使用例である。
 本板碑は国認定美術品であり、埼玉県指定文化財である。
2 最も新しい板碑
 最も新しい板碑は妙音寺(大字髙尾)の02-04であり主尊はバクー尊で、前机に三具足が揃っている。剝落など損傷が著しいが「申待」の文字が残っており、庚申供養の板碑である。紀年号は永禄十□年(一五六七~六九)である。永禄年号は十二年まであり、永禄十一年か十二年であろうが、確認できる文字だけから永禄十年(一五六七)と見て、最古の貞永二年(一二三三)から三三四年間が北本市域で板碑を造立していた年代となる。その間に三八六基の板碑が確認されたのである。
 ちなみに日本最新の板碑は戸田市・妙顕寺の慶長三年(一五九八)銘題目板碑である。

図4 妙音寺永禄十□年銘釈迦一尊種子板碑(02-04)


   申待               
 蓋   輪座  足机         
   バク    具   永禄十□年  
     月蓮  三前         
 天                  
   □□               


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