北本市史 資料編 古代・中世
第3章 城館跡・金石資料・仏像
第2節 金石資料
1 板碑
(五) 主尊の表現形式主尊の表現形式には、種子、図像、尊号の三形態がある。
1 種 子 板 碑
種子板碑は主尊が種子で表現されている板碑である。種子とは梵字の組み合わせで仏を表したもので種字ともいう。仏の心を植物の種子に見立てた表現である。梵字は梵語を記すための文字で、釈迦が生きていたころのインドで使われていた文字である。字体は種々あり、我が国では主として悉曇(しったん)文字を用いている。現代のインド他で使用されているテーナガバリ文字の古形態のひとつである。主尊種子には阿弥陀如来を表すキリーク、釈迦如来を表すバク、地蔵菩薩を表すイー、金剛界大日如来を表すバン、胎蔵界大日如来を表すアーンクの四種がある。
※キリーク一尊種子、キリーク・サ・サク三尊種子板碑
すでに見てきたように板碑のほとんどがキリーク一尊か三尊種子板碑である。市域でも主尊が判明する板碑のうち八七・二%はキリーク一尊か三尊板碑である。
※バク一尊種子板碑
バクを主尊としているものは一尊と三尊形式がある。造立年代で二つの群にわけられる。32-14の応安五年(一三五ー)から40-15の明徳元年(一三九〇)の八基の群・32-06の正平七年(一五三五)から02-04の永禄十口年(一五六七~一五六九)の六基の群である。前者をすべて禅宗による造立とするわけにはいくまいが、後者のうち五基は民間信仰による造立であり、信仰背景が変化し釈迦如来が主尊となっている。
光蔵寺(大字花の木)32-06の紀年号は正平七年で南朝年号である。足利尊氏が一時期南朝側と和解した年にあたり、そうした政治情勢が板碑に反映されたものと理解されている。
図7 光蔵寺正平七年銘釈迦一尊種子板碑(32-06)
十月 | |
パク蓮座 | 正平七年 |
廿三日 |
市域で唯一のバン種子板碑である。市域における大日種子はこのほか胎蔵界のアーンクがあるが、民間信仰の項で触れる。
図8 小島正人家貞治七年銘金大日一尊種子板碑(25-02)
貞治七年 | |
パン蓮座 | |
正月六日 |
市域で唯一の地蔵種子板碑である。北本市域や周辺地域を見わたすと、中世末期の地蔵信仰をあらわす石造遺物が少量ではあるが見つかりはじめている。後述する十三仏種子板碑とともに地獄の思想が普及していることがうかがえる。昭和二十九年三月に大字山中の山林から出土と伝え、現在は行田市内に所在している。
図9 応永廿年銘地蔵一尊種子板碑(外-201)
十月廿六日 | |
イー蓮座 | 応永廿年 |
性 圓 |
主尊が図像で表現されている形式である。寿命院(深井)の40-211が唯一の例である。線彫りによる阿弥陀三尊来迎図像である。左上より右下へ、つまり西方十万億土の阿弥陀浄土より阿弥陀如来と観音・勢至両菩薩の三尊が死者に向かって降りてくる様を描いたものである。三尊とも簡略化されている。脇侍は上体を曲げ、早来迎の様を残しているものの棒立ちに近く、飛雲も力なくやや戯画的である。大永七年(一五二七)に念仏供養のために三十数名が結衆して造立したものである。
図10 寿命院大永七年阿弥陀三尊来迎図像板碑(40-21)
又太郎 | 右近五郎 | くす二郎 | ||
小次郎 | 九郎五郎 | □□二郎 | 妙称 | |
七郎二郎 | □□七郎 | 道悦 | ひこ四郎 | |
九郎三郎 | 左近二郎 | 道金 | 六郎三郎 | |
弥太郎 | □□五郎 | 道昇 | ||
像 | 小三郎 | |||
図 | □□二郎 | |||
尊 | 足机 | 念仏供養 | 元 | |
三 | 具 大永七年丁亥三月吉日 | |||
陀 | 三前 | 本願□寛 | 清 | |
弥 | 右近 | 力二 | [ ] | |
阿 | 平三郎 | [ ] | 妙慶 | 四郎三郎 |
五郎三郎 | 五郎二郎 | 妙圓 | ||
平川三郎 | [ ] | 七郎二郎 | □□二郎 | |
妙心妙用 | ||||
妙秀 |
3 尊 号 板 碑
名号や題目を主尊としたものである。
※名号板碑
南無阿弥陀仏の六字名号を主尊としたものは、40-05、32-02、37-01、28-01、20-06の五基がある。そのうち紀年号のあるものは四基で、元亨年(一三二一~二三)から貞治三年(一三六四)までである。32-02は確定できないが、他は時宗による造立である。
図11 遍照寺貞治三年銘六字名号板碑(28-01)
貞治三年申辰 | ||
南無阿弥陀仏 | 蓮座 | |
十月日 |
※題目板碑
南無妙法蓮華経の七字を主尊としたものである。寿命院(深井)の40-26の断片が唯一である。中央に「南無」左右に「南」が残っているだけである。これは中央は七字の題目で、左(向かって右)が南無多宝如来、右が南無釈迦如来の頭の文字だけが残ったものである。紀年号がなく特定できないが、形態的には鎌倉時代後期である。日蓮宗によっているとすれば、初期の例である。
図12 寿命院年不詳題目板碑(40-26)
南 | |
南無 | |
南 |