北本市史 資料編 古代・中世

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第3章 城館跡・金石資料・仏像

第2節 金石資料

2 板碑以外の石造資料

1 暦応五年銘宝篋印塔基礎
所在地 深井五丁目一〇 薬師堂
法 量 幅一ハセンチ、高一九センチ
銘 文 暦応五(壬午)二月日(一三四二)
       彼岸第六
    一結衆等 (敬白)

図45 薬師堂 暦応五年銘宝篋印塔基礎

2 応安五年銘宝篋印塔基礎
所在地 深井五丁目一〇 薬師堂
法 量 幅二一・六センチ、高さ一六・七センチ
銘 文 応安五年(一三七二)
    二月一三日
    法印 (逆修)

図46 薬師堂 応安五年銘宝篋印塔基礎


3 応安五年銘宝篋印塔基礎
所在地 深井五丁目一〇 薬師堂
法 量 幅二一 ・五センチ、高さ一六・三センチ
銘 文 応安五年(一三七二)
    卯月一八日
    道聖 (早世)略

図47 薬師堂 応安五年銘宝篋印塔基礎


4 至徳三年銘五輪塔地輪
所在地 深井五丁目一〇 薬師堂
法 量 幅二三・八センチ、下幅二二・八センチ、高さ二八・八センチ。
銘 文 性善禅門
     ア
    至徳三年(一三八六)
      十月口日

図48 薬師堂 至徳三年銘五輪塔地輪


5年不詳宝篋印塔基礎
所在地 深井四丁目五五 寿命院
法 量 幅四二・五センチ、高さ三五センチ、奥行四三センチ
銘 文 □寺開山雲山
    大和尚於延文
    来四己亥九月
    二十五日□□
    法口本来法
    去来只一法
    正法明如来
    別無有一法

図49 寿命院 年不詳宝篋印塔基礎一面

図50 寿命院 年不詳宝篋印塔基礎二面


6 年不詳五輪塔地輪
所在地 深井五丁目一一 薬師堂
法 量 幅二三センチ、高さー九センチ
銘 文 口口禅門
     ア  月輪
    □□

図51 薬師堂 年不詳五輪塔地輪


7 年不詳宝篋印塔
所在地 深井五丁目一一 薬師堂
法 量 幅二五・五センチ、高さ一九センチ
銘 文 全道口口

図52 薬師堂 年不詳宝篋印塔


8 年不詳層塔
所在地 大字石戸宿 東光寺
法 量 基部 幅四六センチ、奥行き四七センチ、高さ四〇センチ、内刳長径三一センチ、短径二九センチ、最深部七・三センチ
    初層 幅四二・五センチ、奥行き□□・□センチ、高さ二一・五センチ、軒先厚さ中央部五センチ、端部七センチ、内剖径三〇センチ、最深部一四・五センチ
    二層 幅五〇・センチ、高さー九・五センチ、総高九〇・五センチ

図53 東光寺 年不詳層塔実測図

写真1 東光寺 年不詳層塔写真

図54 『玄同放言』に載っている年不詳層塔



解 説 板碑以外の中世石造物には、宝篋印塔、五輪塔、層塔がある。完形品は無く、層塔がやや遺存状態がましなくらいである。表1のように中世に属する在銘・無銘の残欠が二十四点所在する。なお、この他に中世の紀年銘を有する墓石・石仏等が数点あるが、あきらかに近世の造立によるものと、後刻の可能性があるものは除外した。
 1の宝篋印塔基礎には「一結衆」の刻記がある。造立趣旨は不明であるが、結衆による造立であることがわかる。市域の板碑には第一節で見たように大勢が協力して造立した作善塔はあるものの、「結衆」の文字は使用されていない。「衆」としての明確な意識があったことがわかる貴重な例である。「彼岸第六」は彼岸の六日目のことである。薬師堂には中世石造物十三点が残されており、市域では珍しい集中地点である。現在は小堂となっているが、堂内には室町時代後半頃の作になる木造薬師三尊像が祠られている(第三節参照)。いずれの石塔残欠も小振りであること、薬師三尊像ともあわせて、深井を中心にした地域を開発した土豪層による造立と推測する。
 2は「法印 逆修」の刻記がある。法名はないが、禅門・禅尼ではなく、法印であることからすれば正規の僧が生前に造立したものである。
 3には「早世」の刻記がある。若くして亡くなったものである。いったい何歳ぐらいで亡くなったのであろうか。近世では幼くして亡くなった者の墓石に古いものは無く、中期以降は何人かまとまった段階で造立していることが多い。本例は単体で早世者を供養していることから、将来を嘱望される青年であったのだろう。
 4には「性善禅門」、6には「□口禅門」の法名が刻記されている。おそらく7も同様であろう。近世の戒名と同質である。板碑では四字の法名は南北朝期では二基しかなく、室町中期に多い法名である。五輪塔・宝篋印塔では先行するのであろうか。
 5の宝篋印塔基礎は正確な造立年は不明であるが、銘文中に没年と推測する「延文四」年とう南北朝期の年号が刻まれている。この年代とそう隔たっていない頃の塔であろう。寿命院について『新記』には「・・・・古は持明院と云ひしが、天正年中御朱印十石の寺領を附せられし頃より、今の院号に改めしと云、開山円俊文明年中示寂、其後深井六郎次郎景孝中興せりと云、・・・・」と記載されている。深井氏系図では景吉が景孝の菩提を弔うため開基となった旨が記されており、若干伝承に違いがある。いずれにしても寺域には建長三年銘・建治二年銘などの鎌倉期の板碑がある。もとより種々の石造物が外部より持ち込まれているだろうが、鎌倉時代からなんらかの寺的な活動がなされていたものと推測する。「□寺」は「当寺」であり、寿命院であると解し、何回かの興廃を繰り返したものと仮定する。鎌倉時代の寺が廃れ、南北朝時代に雲山大和尚が中興開山となって寺が興されそして廃れ、室町時代に円俊が再々興した寺が持明院であり、さらに天正年間に開基となって三度再興したのが景孝ではなかったろうか。「法口本来法・・・・」の偈は目下調査中である。
 8は蒲桜の根本にあり、つとに有名である。『玄同放言』の「五輪の石塔」、『新記』の「五輪塔」に該当する。凝灰岩製で、基礎と笠が二層残っている。『玄同放言』の図は現状と大差無く、江戸時代後期にはすでに他の部分を欠失していた。北本周辺地域で、中世に属する凝灰岩製石塔類は本例以外に無い。当初より複数基が存在したとは考え難く、相輪部以外は混成ではないと判断する。基礎はサイコロ状である。初層軸部は失っている。初層の上部に軸部が作り出されていることから、多宝塔ではなく、層塔であることが判明する。現二層部は軸部の造り出しがなく、最上部の笠である。幅が初層より僅かに広く、最上部の笠幅が広い型式である。現初層と基礎との内削りで中空部を造りだしている。経典が納入されていたものと推察する。軸部を欠失していることから、当初からの内刳りではない。風化が著しく、現在は桑茶色しているが、本来は乳白色系である。無銘であるが南北朝から室町期と判ずる。近年群馬県新田郡笠懸村の天神山及び勢多郡新里村の石山に産する凝灰岩による石造物の研究が進み、利根川を越え埼玉県まで分布が及んでいることが明らかとなった。熊谷市の安楽寺の別府氏の墓、大里郡岡部町の普済寺の岡部六弥太忠澄の墓、同町大字後榛沢の榛沢六郎成清供養塔、同郡川本町の畠山重忠の墓など五基が天神山産の凝灰岩と同定され、畠山重忠主従墓所の内の一基が石山産凝灰岩と同定された。本資料についても原産地が天神山産か石山産あるいはそれ以外の産か分析中である。『玄同放言』では相輪部に五輪塔の空風輪風のものが載っている。これは現在も遣存している。黒褐色の多孔質安山岩製の一石によるもので、小振りの丁寧な造りである。沈線で蓮弁が表現されており、相輪の宝珠と請花を九輪以下と切り離し、再加工したものであることが知れる。中世に属するであろう。現在はやはり中世の宝篋印塔笠部と先の宝珠と請花を載せていたり、近世の宝篋印塔相輪部の宝珠と請花部を載せたり時々入れ替わっている。

 表1  板碑以外の中世石造遺物一覧
1  一三四二 暦応五 宝篋印塔 基礎  深井五    薬師堂
2  一三七二 応安五 宝篋印塔 基礎  深井五    薬師堂
3  一三七二 応安五 宝篋印塔 基礎  深井五    薬師堂
4  一三八八 至徳三 五輪塔  地輪  深井五    薬師堂
5           宝篋印塔 基礎  深井四    寿命院
6           宝篋印塔 基礎  深井五    薬師堂
7           五輪塔  地輪  深井五    薬師堂          
8           層塔       大字石戸宿  東光寺
9           宝篋印塔 笠   深井五    薬師堂
10          宝篋印塔 笠   深井五    薬師堂
11          宝篋印塔 笠   深井五    薬師堂
12          宝篋印塔 基礎  深井五    薬師堂
13          五輪塔  空風輪 深井五    薬師堂
14          五輪塔  火輪  深井五    薬師堂
15          五輪塔      大字古市場  如意寺
16          宝篋印塔 基礎  大字常光別所 無量寿院
17          五輪塔      大字常光別所 地蔵堂
18          五輪塔      大字花の木  光蔵寺
19          五輪塔      大字北中丸  太子堂
20          宝篋印塔     大字北中丸  太子堂
21          五輪塔      大字北中丸  薬師堂
22          五輪塔  火輪  北中丸七八七 安養院
23          宝篋印塔 笠   大字石戸宿  東光寺
24          五輪塔  空風輪 大字石戸宿  東光寺

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