北本市史 資料編 古代・中世

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第3章 城館跡・金石資料・仏像

第1節 城館跡

2 石戸城跡

            (大字石戸宿字城山耕地)
石戸城跡は、北足立地方最大の城であり、北条・武田・上杉の各戦国大名をはじめ、上田氏・太田氏ら北武蔵の武将と関係をもった中世後期の代表的な城である。現状は山林・宅地・耕地となっており、地上に見える遺構は土塁など多くはないが、絵図など文献資料も残っているので、郭(くるわ)の配置や埋まっている堀などを復原することは可能であり、今後の復原幣備がまたれるところである。
立地 石戸城跡は大宮台地の北西端にあり、JR高崎線北本駅の南西方三・五キロメートルに位置している。城跡の西側は荒川低地の崖線が走り、荒川越しに三方に眺望が優れ、西方には吉見町から東松山市など比企地方を一望のもとに見渡せ、その彼方には秋父山地を遠望することができる。南方には川越市方面の武蔵野台地を、そして北方には荒川中流域越しに群馬県の西部方面の山々も望むことができる。

写真3 石戸城跡航空写真(石戸宿)

城の北側から東側にかけては深い樹枝状の谷が入り込んでおり、急峻な崖に画されている。したがって、石戸城は三方を高い崖に囲まれた自然の要害の地に築かれたのである。
城の建物が築かれた台地面はおおむね平坦であり、標高は二四〜二六メートルを測る。いっぽう、荒川低地の標高は約 一二~一三メートルで、荒川(江戸時代初期までは和田吉野川)の旧流路は、城跡の西側直下を蛇行して流れていたとみられ、現在でもその流路跡が断続的に残存している。
北側から東側へ入り込んだ谷は、荒川の支谷で城跡の北側で谷筋を分枝しており、谷幅は谷底で五〇~一〇〇メートルある。この谷は、現在は泥深い湿田となっているが、在城のころは水濠であった可能性がつよい。現谷底面の標高は一三〜一四メートルであり、台地上との比高一三メートルもあって、大宮台地に刻まれた谷のなかでも、最も深い谷であるということができる。
近在の城との位置関係については、石戸城の本城である岩槻城は南東方一九キロメートルにあり、また敵対関係にあった松山城は西北西へ八キロメートルにある。川越城は南方約一〇キロメートルにあり、騎西城は東北東一二キロメートル、忍城は北方一五キロメートルにある。北条氏の支城鉢形城は、北西へ三〇キロメートルにある。
遺構 建物は現存していないが、土塁跡・堀跡が断続的に残っているほか、本丸跡をはじめ各郭とも比較的良好に施設跡を埋蔵していると考えられる。
城域の外形は、たて長の台形をなし、城の東・西・北の三方の断崖となっていて、台地続きの南側を堀切りしていたとみられる。この南側の堀切りを底辺として、北辺の台地先端までが約二五〇メートル、東西幅は南側で約二〇〇メートル、北側でー〇〇メートル余である。北端部は堤防用土の採取のためにかなり崩されており、原状を残していない。

図4 石戸城跡現況測量図

本丸は、北側先端部分の東西約一二〇メートル、南北約八〇メートルにあったとみられ、その西半部が一区画、東半部が二区画に、それぞれ分割されていたようである。その中央部には北方約二〇メートル、高さ約ニメ¥トルの土壇が築かれている。この土壇上には、物見櫓が建っていたのではないかと考えられる。本丸の三つの小郭は、土塁と堀で囲まれていたと推定され、土壇の北側にはY字状の堀があり、台地肩部に沿って、途中クランクして延びる。本丸の南側には東西に走る堀があり、城域を二つに分けている。この堀は、台地中央部から東にかけては明瞭に観察されるが、西側は不明瞭である。昭和五十四年、北本市教育委員会の発掘調査で、本丸の西側にこの堀と平行する堀が検出されており(図3)、さらに別の郭の展開が考えられる。
本郭の北側と東側には腰郭(こしぐるわ)があったとみられ、一段下がって平らな部分が幅数メートルから一五メートルにわたって廻っている。東側の特に広くなる部分には、井戸跡と伝える窪地がある。
本丸の南側の部分は、二ノ丸跡とみられるが、いまのところ二の丸跡の遺構は見当たらないものの、埋存しているものと推察される。

図5 石戸城トレンチ実測図

1.褐色土
2.褐色土
3.茶褐色粘土
4.明褐色土
5.暗褐色土
6.暗褐色土
7.褐色土
8.褐色土
9.暗褐色土
10.黒褐色土
11.暗褐色土
12.暗褐色土
13.暗褐色土
14.褐色土

そのほか、郭と推定できる所としては、南西端に堀で囲まれた四〇×三〇メートルの部分をあげることができる。西側は浸食により崩壊しているが、南側には高さ約ーメートルの土塁も走っている。この部分は、元禄十年の絵図でも郭として描かれている。この郭の東方約二〇メートルには方形の窪地(一〇×一五メートル、深さ二メートル)がある。これは、堀の連結部または大井戸跡とみられる。
試掘調査 昭和六十年、埼玉県教育委員会は、県内の城館跡の緊急調査を実施したが、北本市内では石戸城跡が対象となった。この調査では、本丸を中心に三本の卜レンチを設定した。1トレンチは土塁、堀を検出した。土塁西側の堀は、ロ —ム層上に堅く踏み固められた褐色土が認められ、堀道と考えられた。2トレンチは土壇に設けたもので、この土壇が黒色土、ローム・砂岩ブロックを含む土層を積んで搗き固めて構築されていることを確認した。3トレンチは、堀の規模・形態を把握するために設定したが、堀の北側の落ち込み部分を検出するにとどまった。なお、4トレンチで検出された堀は、深さが現地表下約五・五メートルと推定される大規模なものである。
関係遺物 昭和九年、本丸の北部において刀剣がー振掘り出されたことがあるが、不詳である。
また、石戸城跡に所在している板石塔婆として確認されているのは、昭和五十四年の発掘調査で堀跡の中から出土した破片一点のみである。ただ、隣接する放光寺墓地内には、石戸城跡出土と伝える板碑一基が奉納されているというがやはり不詳である。
城の記録・伝承 大永五年(一五二五)、岩付城主太田資頼は、家臣渋江三郎の北条氏康への内通により岩付城を追われ、石戸城に逃れている(『新編武蔵風土記稿』)。下って永禄年間の北条氏康、上田朝直、太田資正との松山城争奪をめぐって、本城は太田氏にとって重要な向城となっていた。永禄六年(一五六三)二月には、北条・武田の大軍に囲まれた松山城の後詰めに駆つけた上杉謙信は、石戸城に到着している(上杉輝虎書状)。
『関八州古戦録』には、永禄五年(一五六二)、北条氏政の下知(げち)を受けた鉢形城主北条氏邦が秩父・鉢形勢を率いて「足(石)戸ノ砦」を攻撃したことを記している。また、この戦さの時に氏邦が石戸城北側の深田に一夜にして土橋を築き城に攻めのぼったという伝説があり「一夜堤」と呼ばれる堤跡も残っている。以上の古記録等を示せば、つぎのとおりである。
『新編武蔵風土記稿』巻之百五十一(第四章 参考資料「記録・系図等」の項参照)
『武蔵志』(第四章 参考資料「記録・系図等」の項参照)
『関八州古戦録』(第四章 参考資料「記録・系図等」の項参照)
 『関係古文書』  江戸時代の古文書のうちに、石戸城を描いた古文書三点があることが、市史編さん室の調査で明らかになった。
① 元禄九年九月 下右戸上村・下村と荒井・高尾・小松原の秣場論所裁許状(北本市教育委員会蔵)図6
この文書は、元禄年間に当地方で発生した秣(まぐさ)場をめぐる争論に対し、幕府が調停した取り決めを表わす資料であり、裏書きに争論にかかる詳細な村絵図を載せている。なおこの裁許状は、以下に記す②③の文書の原本と思われる。
この文書中、裏書きの石戸城跡のところには「城山」と書き、北側に三つに区画された本丸とみられる部分、その南に二ノ丸とみられる部分、南西隅に二つの郭を書いている。
この外郭線の南側は、七・八〇メートルにわたって空地となっていたようである。この空地は、人馬の往来を容易に監視したり、軍馬を教練したりするための土地であったと考えられ、その南限には柵列又は柵堀が付設されていたと想像される。①・②・③絵図とも、この中央部に二軒の家  が描かれているが、通行の監視役を果たした家の名残りではないかと思われる。
大手門は、この家の東後方の中郭と東郭の間にあったものと推定される。
城の西南には、天神社、放光寺、八幡神社がある。南側には、街道の両側に建ち並ぶ石戸村の家並みも書いている。
②元禄十年六月 下石戸上村・下村と荒井・高尾・小松原三か村の秣場論所裁許状(荒井 矢部洋蔵家所蔵)図7
この文書は①の写しであり、石戸城跡は、北に本丸とみられる郭を書き、その南に二ノ丸とみられる郭を書き、そして南辺に三つの郭を書いている。南限には堀らしき二本線も書かれている。
③元禄十年六月、下石戸上村・下村と荒井・高尾・小松原三か村の秣場論所裁許状(宮内野原恵次家所蔵)図8
この文書は、②と同時に書かれた写しであり、基本的にはほとんど②と変わらないが、石戸城跡に関して言えば、南辺の三つの郭の形が少し異なっている。

縄張り規模 石戸城の当初の姿は、到底推察することはできない。現在、残存する地上遺構や絵図等により推察できるのは、石戸城の最後の姿である。
まず、占地形態は平城ではあるが、外周に川や深い谷を配しているので平山城の性格も帯びている。元禄十年の絵図で見ても、西側足下には蛇行する荒川が流れている様子が描かれており、防禦上極めて要害な条件を具備していたことがうなづける。また、北側はこの荒川に通ずる谷の出口となっているので、営城時はここから荒川(和田吉野川)の水を導入して、東側の谷をも湛水させていたことが推測される。

図6 秣場論所裁許状裏絵図(北本市教育委員会所蔵)

図7 秣場論所裁許状裏絵図(矢部洋蔵家所蔵)

図8 秣場論所裁許状裏絵図(野原恵次家所蔵)

囲郭の形態は、多郭方式の城で、本丸を台地の北端部におき、二ノ丸・三ノ丸を順次南側に設けた梯子形の縄張りであったものと推察される。本丸を台地の北端部に想定した理由は、地形的に防禦上最も安全度が高いこと、残存遣構の在り方や絵図の郭配置からその部分が堅固に取り巻かれていることなどである。①の絵図によれば、本丸内は三区画されているが、主要建物は西側の区画内にあったと思われる。
二ノ丸は、②と③の絵図では本丸の南側に鍵形の郭が描かれているが、①では東西に開らけた「逆への字」形に描かれている。この部分は、おそらく②と③のような形で築造されていたとみてよいであろう。
三の丸とみられる部分は、東西に三つの郭が並んでいる。それぞれ東郭・中郭・西郭と仮称しておこう。東側の郭は、二ノ丸の郭とみられる部分にまでのびている。三ノ丸の南側の外郭線には、折邪(おりひずみ)のある深い空堀と土塁があったように各絵図に描かれている。
これら②・③の絵図によると、石戸宿の家並が城の南方に建ち並んでいる。家々は、城に向かって南北に走る道の両側に、向かい合って西側に二二軒、東側二〇軒ある。おそらく、この集落は石戸城の根小屋の流れをくむ集落ではないかと察せられる。場合によると、この集落を防衛する意味で、集落の南はずれにも土塁や堀が築造されていたかもしれない。
城域は、三ノ丸までが約四万平方メートル(四町)、柵列まで含めると約五万平方メートル、そして集落まで含めた惣構えとすると、二〇万平方メートル以上に及ぶ規模となる。
以上のとおり、石戸城の最後の姿を述べてくると、この時代は、廃城になった戦国時代であると考えざるをない。
築城年代と居城者 前述した石戸城の築造年代は、囲郭形態からして室町時代後期すなわち戦国時代であると推察される。このとき築城者は、『新編武蔵風土記稿』でいう藤田八右衛門である可能性がある。このことは、八右衛門が扇谷上杉氏の家人であること、そして、永禄六年にその惣大将たる上杉謙信が出張してきて在城したと書かれた書状(上杉輝虎書状)があることからも、じゅうぶん考えられるところである。
また、岩付城主太田資頼が岩付城を追われたとき、石戸城に逃れていることが『新編武蔵風土記稿』に書かれていることからも、大永五年I一五二五)には、石戸城は確実に存在していたことになる。台地の北端部に本丸を置いて、南方から来襲する外敵にそなえるという、石戸城の現存縄張りの施工者は太田資頼であり、のちに主たる敵方が西方の松山城方面に移っても、この伝統は廃城するまで継承されたようである。このように、台地北端部の険岨な地形を利用するような築城の思想は、戦術・戦法が高度化・大規模化した戦国時代のものであり、それ以前の館・城の立地は、平面的・狭域的である。
したがって、大永年間よりも前に、石戸城があったとすれば、遺構の中心はもっと南の方に寄っていたと想像される。この地は、大宮台地の西縁を南北に走る要路で、鎌倉街道も走っていたとも伝えるとともに、「石戸渡し」を渡れば比企地方にも通じる、まさに交通上の要衝であることから、中世前期から館・城が存在したであろうことは、想像に難くない。要害地形の好条件も、その立地を当然誘導したと考えられるからである。『武蔵志』に、石戸左衛門尉が居館したと記していることからも、左衛門尉一族の館や城が鎌倉時代以来存在したと考えてもよい。最初は、堀ノ内館の出城的な施設がつくられ、漸次、恒常的・本格的な館・城に発展し、室町中期ころから堀ノ内館にとつて代わったと考えられないだろうか。
もちろん、創造期、修築・発達期の縄張りも存在したわけであるが、それらについては現状では想像の域を出ない。それらは、今後、長年にわたる発掘調査が実施された後、明らかにされるであろう。

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