北本市史 資料編 古代・中世

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第3章 城館跡・金石資料・仏像

第3節 仏像

(三)作品紹介
作品紹介
東光寺銅造阿弥陀如来坐像
〔品質・構造〕 鋳銅製、仏像本体と台座蓮台の部分をー鋳し、これに別鋳した反花座を鎭留めとする。像背面には、光背柄を鋳出す。反花座は近世の補作。
〔法 量〕 像高 七・九センチ 膝張 六・九センチ 膝奥 六・〇センチ 総高 一三・四センチ

写真1 東光寺銅造阿弥陀如来坐像

 通肩に法衣をまとい、弥陀の定印を結び、右足上に結珈趺坐する通例の阿弥陀像だが、頭部を飾る螺髪が巻縄状に表現されているのが異色である。こうした表現は京都・清凉寺の釈迦如来像に先例を見るように、その起源を大陸に持つものだが、わが国では鎌倉時代に一部で流行を見た表現様式と見なされる。また、像の両肩から胸に流れる衣の襟の線に抑揚をつけ、膝前部を厚く作るといった表現にも鎌倉彫刻らしい時代の特色がよく表れている。小像ながら整ったプロポーションと生彩感のある造形表現にはみるべきものがあり、鎌倉時代末は降らないころの製作と推定される。
 反花座はその作風から見て江戸時代の後補と判断される。正面蓮弁に「光明院/遍誉/利岳信士」といった法名が陰刻されていることからすれば、おそらく故人の菩提を弔うために補作されたものであろう。本像の伝来については明らかでなく、当初からこの寺に安置されていたものなのか、あるいは反花座が補作された時期に施入されたものなのか、その辺の事情は判然としない。いずれにしろ市内に現存する最古の仏像として貴重な作品といえよう。
 
寿命院銅造地蔵菩薩立像
〔品質・構造〕鋳銅製、像全身と台座を含めてー鋳。外型は前後合わせ型による。
〔法 量〕 総高 五・五センチ

写真2 寿命院銅造地蔵菩薩立像

 手のひらにおさまるような小像で、火中した形跡があり、当初の像容をほとんど留めていない。現状から復原してみると、平行状の衣褶をたたむ通肩の法衣をまとい、右手やや肘をまげ掌を前に向け、左手屈臂し宝珠をもつ姿の地蔵菩薩と思われる。時代の判定は難しいが、材質、形制等に中世的な要素がうかがわれ、鎌倉時代に遡るものとみなされる。その簡便な造りからみると、当時多牡に製作され広範囲に普及した小金銅仏の一例とみることも可能であろう。後世の木瓜型厨子に丁寧に安置されていることから推すと、寿命院に所縁ある人物の念持仏であったとも考えられる。

寿命院木造阿弥陀如来立像
〔品質・構造〕 ヒノキ材寄木造、玉眼、漆箔。
〔法 量〕 像高 三九・五センチ 髪際高 三六・二センチ 面奥 五・五センチ 面張 四・三センチ 耳張 四・七センチ 肩張 八・九センチ 臂張 一二・〇センチ 胸奥 五・五センチ 腹奥 六・四センチ 裾張 一一・五センチ

写真3 寿命院木造阿弥陀如来立像

 法量は髪際で尺五寸をはかる如来形立像で、現在両手先、右足先を欠失するが、本来は上品下生の来迎印を結んだ阿弥陀如来と思われる。華奢ながら形制相整った流麗な作風を見せ、よく整理された法衣の衣文の彫り口などには、手慣れた作者の腕の冴えが感じられる。様式的には鎌倉彫刻界に一時期を画した安阿弥快慶のそれを受け継ぐものだが、頭の鉢開き、髪際厚く、眦(まなじり)つりあがった癖の強い面貌描写にこの像の個性を見いだすことができる。全体の彫技に形式化がめだつ点、製作時期はそれほど遡りえず、室町時代後半期の造立と見るのが妥当なところであろう。後述する深井薬師堂の木造薬師三尊像と共通した作風が認められ、同一仏師もしくは同一仏所の造立になるものと判断される。
 現在、本堂脇壇の厨子内に安置されており、その伝来を明らかにしないが、時期的には寿命院中興以前に遡るものと見受けられ、あるいは当院の前身持明院時代の旧仏であったとも考えられる。

深井薬師堂木造薬師三尊像

写真4 深井薬師堂木造薬師三尊像

〔品質・構造〕 寄木造、玉眼、肉身漆箔、法衣彩色。三尊とも頭体幹部を一材で木取りし、面部を割って玉眼を入れ、両腕、両足、その他の部分に別材を寄せる。
〔法 量〕 中尊 像高 二八・四センチ 膝張 二四・三センチ 膝奥 一七・〇センチ 左脇侍 像高 三一 ・三センチ 右脇侍 像高 三一・七センチ
 薬師堂本尊として伝来したもので、破損がややめだつが三尊一具の像である。中尊は裙の紐の結び目を腹前に覗かせて通肩に法衣をまとい、禅定印を結んで結跏趺坐する。現在、薬壺を失うが、当初は禅定印を結ぶ掌の上に捧持していたものと考えられる。両脇侍は綺麗に櫛けずった髪をほど高く結い上げ、条帛、天衣、裳をまとい、それぞれ長い茎をもつ蓮華を両手にささげ、左右に腰を捻って、台座上に立っている。三尊とも刀の切れ味の鋭い小気味よい仕上がりをみせ、面貌やや四角ばり、豊頰、眦切れ上がった独特な表情に個性があり、小太りの体躯、彫り深く整理された衣褶表現等全体に古格に則った崩れのない彫技が認められる。様式、技法的にはおおむね鎌倉後期頃の彫刻様式を踏襲するものだが、その癖の強い個性的な作風は前述の寿命院の阿弥陀像に共通しており、やはり同一の仏師もしくは同仏所の製作による室町時代後半頃の作品と判断される。この三尊像に付属する延享三年(一七四六)銘の十二神将像の台座裏に明応九年(一五〇〇)の文字が見えることからすると、あるいはその頃に本像の造立時期を求めることも可能であろう。また、これによく似た作風を示す薬師如来像(寄木造、玉眼、漆箔、像高二一・七センチ)が、荒川対岸の比企郡吉見町下細谷大字仲所在の薬師堂に伝来していることが確認されており、当時この辺りで活動していた仏師集団がいた可能性も想定され興味深いものがある。

旧修福寺地蔵堂木造地蔵菩薩半珈像

写真5 旧修福寺地蔵堂木造地蔵菩薩半跏像

〔品質・構造〕 寄木造、玉眼、漆下地に彩色。頭部耳前で前後二材を寄せ、本体に差首、体部は両肩先を含めて前後二材から造り、内刳し、膝前横に二材を寄せ、左足、両手先及び裳先を別材とする。
〔法 量〕 像高 三八・二センチ 膝張 三二・五センチ 膝奥 二八・〇センチ 総高 五六・〇センチ
 かって下石戸下の当地にあった修福寺という天台寺院に付属した地蔵堂の本尊で、伊東刑部なる人物が背負って来たものとの伝承を持つ。右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、左足を台座下に垂下して半跏する、いわゆる延命形の地蔵菩薩像で、後世の補修や彩色が加えられているとはいえ、全体に古格のある整った仕上がりを見せる。そのカッキリとまとめあげられた頭部の造りや強い曲線を描く衣褶の彫り等には、鎌倉彫刻に通じる独特な調子の強さがある。ただ、総体に彫技がかたく陰影に乏しい形式的な表現になっているのは、時代が下がることを物語っており、室町時代も後半に入ってからの造立とみなされる。

旧双徳寺観音堂木造千手観音坐像

写真6 双徳寺観音堂木造千手観音坐像

〔品質・構造〕 寄木造、玉眼、漆箔(後補)。頭体部耳後で前後二材矧とし、頭部は三道下で割首。両腕肩先から別材を寄せ、膝前も別材とする。現在、両腕及び脇手の大半を欠失する。
〔法 量〕 像高 二六・ハセンチ 膝張 二〇・五センチ 膝奥 一六・五センチ
 明治四年に廃寺となった天台宗双徳寺観音堂の本尊。破損がひどく、当初の尊容を損なっているが、正面に弥陀の化仏を配した宝冠をかぶり、身体左右に脇手をつけた通形の千手観音像であったとみなされる。調子の強い古格のある面貌描写、膝頭を強く張り、顕著な反りをみせる膝前部の造り等に特色があり、なかなか個性的な作風を示す作品である。像底部を浅く刳りあげ、布貼り錆下地仕上げとし、さらに左右に一対の柄穴を設けているのも古風で、こうした手法は主に南北朝から室町時代頃の鎌倉地方彫刻の流れを汲む作品に見受けられるものである。全体に刀の入りが浅くなっていることから推すと、室町時代も末頃の制作になるものであろう。これによく似た作風を示す作例が吹上町、大宮市、浦和市、川口市、戸田市、岩槻市等から検出されており、中世末期の一時期この地域一帯で活動を繰りひろげていた仏師集団が存在していた可能性が想定される。おそらく鎌倉地方仏師の系譜を受け継ぐ仏師と考えられるが、その実態については今後の研究をまちたい。

写真7 慈星院木造虚空蔵菩薩坐像(川口市)

写真8 福厳寺地蔵菩薩坐像(岩槻市)



高尾観音堂銅造十一面観音懸仏
〔品質・構造〕 鋳銅製、本体と蓮台を別鋳し、ロウ付けとする。また、本体袅側腹のあたりに植を鋳出す。
〔法 量〕 総髙 五・一センチ
 当観音堂本尊木造十一面観音像(一木造、彫眼、漆箔、江戸時代)の背面内削の中に納入されていたもので、やや不鮮明ながら頭頂部に弥陀の仏面をいただき、その下方に変化面をめぐらせ、右手膝上に置き、左手持物を持ち蓮台上に坐す小金銅仏である。本来は懸仏の鏡面中央に配置されるものだが、本像は仏身のみが伝来したものである。その様式・形制から推すと室町時代も末頃の製作と見なされる。これを納入する本尊は、内剖の蓋板に「享保十六(一七三一)年亥二月三日 願主順意」の墨書銘があり、その造立時期が明らかにされる。おそらく願主が祈願をこめて、本像を納入したものであろう。

写真9 高尾観音堂銅造十一面観音懸仏

(木造十一面観音坐像)

(懸仏納入状況)



大蔵寺木造阿弥陀如来立像

写真10 大蔵寺木造阿弥陀如来立像

〔品質・構造〕 寄木造、玉眼、肉身部漆箔、法衣彩色
〔法 量〕 像高 八四・一センチ 臂張 二三・五センチ 腹奥 一四・四センチ
 かつて大蔵寺の付近にあった天台宗修福寺の本尊であったが、明治四年に同寺が廃寺となったため大蔵寺に引き取られたものである。通肩に法衣をまとい、来迎印を結んで台座上に立つ通形の阿弥陀像だが、後世の塗り替えにより本来の尊容や像の構造を明らかにしない。細かい衣褶を刻む衣の表現や稚拙味のある像容表現に時代の古さがあり、室町時代に遡るものと考えられる。地方仏師の製作であろう。
 なお『北本市文化財調査報告書第七集 北本の仏像』では、江戸時代の像と判定したが、ここに室町時代の制作と訂正しておく。



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