北本市史 資料編 古代・中世

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第3章 城館跡・金石資料・仏像

第1節 城館跡

4 上手館跡

          (古市場一丁目、宮内五丁目)
この館跡の所在・伝承については、つい最近まで誰にも認識されていなかったが、地元に住む矢口武司氏の研究と市史編さん室の現地調査および航空写真測量等によって、明らかになったものである。したがって、館の名称についても伝承はなかったが、今後の周知、研究、保存のために、つぎのような理由のもとに、便宜上、上手館跡と命名した。(一)所在地が上手地区にあること。(二)「ウワデ」という地名が、館・城に由来する地名であろうと想定されること。
位置・立地 上手館跡は、現在の地番では、古市場一丁目・宮内五丁目であり、新日本ガス株式会社の敷地およびその西側一帯の山林中にひろがっている。
地形的には、大宮台地の北東部にあって、北側と西側には、比高差二メートルの浅い樹枝状の谷がのびてきている。谷幅は、北側が一〇〇メートル、西側が八〇メートルである。館跡内部の地表標高は一六メートル前後である。

図10 上手館跡位置図

付近の土地利用は、館跡内が雜木林・宅地・工場であるが、周辺の谷地部分は水田となっている。水系的には赤堀川水系の谷田川(谷田用水)に属する。この谷田川は、赤堀川の支流で、赤堀川が赤堀川低地の東縁を流れるのに対し、谷田川は西縁を流れている。上手館跡は、赤堀川低地から西方へ分岐した枝谷の南側に立地している。
交通上は、県道下石戸上菖蒲線から約二〇〇メートル北へ離れた地点にある。この道は、岩槻街道と呼ばれているように、中世、岩付城(現在の岩槻市内にあった城で、江戸時代は岩槻城と書かれた)へ通ずる重要な道路であって、この道路沿いには多数の館・城があつた。岩付城は、当所から南東方向へ約一七キロの地点にあり、近在の館や城までの距離としても、桶川市の加納城が南東へ約二キロ、加藤氏館跡が南へ約一・八キロ、深井氏館跡と考えられる寿命院付近が北西へ約一キロ、石戸城は西へ約五キロである。
遣構 上手館跡の全体としての保存状況はきわめて惡いが、中心と思われる郭(くるわ)が辛ろうじて残存している(平成元年現在)のは幸いである。この郭は、新日本ガスの北側の雑木林の部分であるが、新日本ガスの工場敷地へも続いている。
地上に見える遺構としては、まず土塁がある。その土塁は、郭の西南縁に一本と、その南端近くから北東方向へ走るー本の計二本で、L字形に残存している。西南縁に走る土塁は、下幅約六メートル、上幅二メートル、高さ一・〇~一・四メートル、長さ約七五メートルある。南側の土塁は、長さ約二六メートルで、幅・高さとも西南縁の土塁と同規模である。西南縁の土塁は、西側の谷の崖線に築かれているので、谷底から高さを測ると約三メートルの高さとなる。
これらの土塁のほか、昭和二十二年GHQが撮影した航空写真によると、郭の北側に北東方向へ走る二本の土塁らしき地ぶくれが走っているのが観察される。そのうちの一本は、北側の谷の崖線に沿って、西南縁の土塁から東北に約一五〇メートルのび、他の一本は、その土塁の南側十数メートルのところをほぼ平行して走る、同長の土塁である。なお、これら二本の土塁の存在については、航空写真測量図からも、その形跡を示す等高線が走っていることから窺(うかが)うことができる。

写真4 上手館跡航空写真(古市場)

つぎに堀については、現場でもそれらしき地面の凹みを一条観察することができる。それは、郭の北側を走る二本の土塁の間に平行しているものである。深さ約五〇センチ~一メートル、幅三~四メートル、長さ約一〇〇メートルである。相当に埋まってしまっており、辛うじて堀跡と推察できる程度のものであり、昭和二十二年の航空等真でも、その存在を確認することができる。
このように、土塁・堀が昔日の姿をわずかに残して保存されてきているので、この地に館があったことを推定できるわけである。これらの土塁や堀の残存状況から館の形態や規模・縄張りについて考察すると、つぎのように述べることができる。
本郭と考えられる部分が、東西約一五〇メートル、南北約一〇〇メートルの短形をなし、その北側に約二〇メートル幅に細長い帯郭(おびぐるわ)のような空間をもっている。館の建物は、当然本郭の内側にあったものと考えられる。現存する建物は皆無であるが、本郭内には建物の柱跡などが埋存しているものと推定される。
なお、この館跡の東方約ー〇〇メートルのところに、台地が赤堀川低地へ円形状に突出した地形が存在したことが、明治時代の迅速測図や昭和二十二年の航空写真から読みとることができる。この地形は、上手館の出丸跡の可能性も少しはあり、注意を要するところである。
伝承・古記録 当所が館跡であるというような伝承については、現在までのところ採録されてない。
江戸時代後期に書かれた『武蔵志』(福島東雄著)の足立郡の項に「古市場古塁」という記載が、つぎのようにある。
古市場古塁 古市場村二在 地形西北深田 東南平地ナリ 城主不詳
上手館跡が、この古市場古塁であることはほぼ間違いないところである。同書に古塁とあるように小規模な状態にあったことがうかがわれる。
築造年代・居館者 当地(古市場村)は、『新編武蔵風土記稿』によれば、鴻巣領深井庄に属したが、古くは岩槻領と唱えたというように中世は、長い間、岩付太田氏の支配下にあった。そのようなことから、太田氏に従った鴻巣七騎関係の武士の館と考えてみたが、これを物語る史料も伝承も何らない。そのうえ、土塁等の囲郭形態が一~二町歩の方形囲郭という古い形態をとっている。築造年代は、中世前期にまでさかのぼる可能性はじゅうぶんある。築造年代や居館者の特定は、堀跡などの発掘調査によって解明されなければならない。

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