北本市史 資料編 古代・中世

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第3章 城館跡・金石資料・仏像

第1節 城館跡

5 加藤氏館跡(幸左衛門屋敷跡)

                  (中丸八丁目)
この館跡は、『新編武蔵風土記稿』の下中丸村の条に、「旧家 幸左衛門」と記載する屋敷跡である。北本市史編さん室で、平成元年現地調査をした結果、館跡と推定されるに足る遺構を確認し、伝承を聞き書きすることができた。
位置・立地 加藤氏館跡は、現在の地番では中丸八丁目付近であり、加藤敬吉・加藤良作両氏宅を中心とした地域である。新義真言宗の安養院は、この館跡に一部含まれている。位置的には桶川・北本水道企業団本部の東方、国道一七号をはさんだ反対側にある。
地形的には、大宮台地の稜央部の東側にあって、わずかに緩傾する地形が平坦に転じた部分にある。この転換地帯に綾瀬川水系の浅い樹枝状の台地谷が微低地を張り刻んでいる。この微低地は、館跡の西側と東方に入り込んでおり、現在まで水田が営まれてきた。館跡内の標高は一七~一八メートル、微低地で一六・五メートルを測る。付近の土地利用は、田・畑がまだ多く、宅地、屋敷林もある。

図11 幸左衛門屋敷推定位置図

遣構 この館跡の領域と考えられる北側と西側には、数十メートルにわたって堀跡とみられる溝状の窪地が走っており、当所の加藤氏も「これは構え堀であって、昭和二十年ころまでは、もっと良く残存していた」と証言されている。現在観察されるこの遣構は幅約五メートル、深さ一メートルあり、北側で長さ四〇メートル、西側では三〇メートルを確認することができるが、埋まるにまかせている現状であり、北側の堀は安養院の裏側へものびている形跡がある。土塁の存在は、確認できない。
昭和二十二年、GHQ(占領軍司令部)が撮影した航空写真によれば、畑を中にして箕輪型に平地林が残存し、西側はあたかも二本土塁が残存しているように映っている。この写真によれば、やはり安養院も館跡とみられる領域内に入っている。
館跡の規模は、内郭が一町四方、外郭まで含めると二町四方くらいになるものと推察される。
記録・伝承 記録類として最も重要な資料は『新編武蔵風土記稿』巻百四十九の幸左衛門・太田社・安養院の項である。(第四章 参考資料「記録・系図等」の項参照)
築造時期・居館者 これらの記載から、この館跡は室町時代に築かれ、その後半すなわち戦国時代(十六世紀)に最も多く使用されたことを推定することができる。居館者は、幸左衛門の祖先である加藤修理亮宗安と伝え、彼は岩付城の太田氏に従った「鴻巣七騎」の一人であり、また、彼の父は太田氏に仕えた小池長門守であったという。
この館跡の南方約三〇〇メートルの桶川市加納地区には、「岡部屋敷」があり、三国コカ・コーラ株式会社の所在地付近からは板碑が多数出土したといわれる。このようなことを考え合わせると、この中丸地区が室町時代に相当広く開発され、江戸時代になっても豊かな農村であったことを想像することができる。「中丸」という地名は館や城に由来するものであろうが、この屋敷跡と関係する地名であると明言することは、現段階ではできない。
しかし、加藤氏館跡の規模・縄張りなど不明な点も多いので、今後の調査の進展が望まれる。

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