北本市史 資料編 古代・中世

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第3章 城館跡・金石資料・仏像

第1節 城館跡

6 対馬屋敷跡

この遺跡は、深井地域を広く開発したといわれる深井対馬守の居住した所であるが、その所在地については平成元年現在、特定することができない。
古記録 対馬屋敷のことが記録にあらわれているのは、『新編武蔵風土記稿』巻百四十八の上深井村・下深井村の条である。この村内の小名「堀ノ内」について、つぎのように説明している。
堀之内 東の方を云、古へ深井対馬守が居住せし所なり、ーに対馬屋敷といふ、
平成元年現在、深井地区に堀之内という地名も、対馬屋敷という伝承地も聞き出したり、絵図や文書類などでも見つけ出すことができないでいる。堀之内という地名は、一般的には館・城の関係地名では古い段階の遣跡につけられているケースが多い。すなわち、古代末期から中世初期の館跡につけられている地名である。そこで、可能性が出てくるのが、建治・建長年間の紀年銘のある板碑が所在する寿命院の境内である。当院の裏林には、直径二〇メートルほどの井戸跡とみられる窪地があったり、南側には東西に走る帯状の低地帯があることなども、その根拠になるかもしれない。また、GHQの航空写真を見ると、この低地帯の南側一帯の地域も口形に微低地がまわっているので、堀之内をそこに比定できるかもしれない。これは、あくまでも間接的な考証資料であるので、今後の精査の必要性を痛感する。
つぎに、深井対馬守の人物像については、『新編武蔵風土記稿』巻百四十八に、上州白井の城主長尾左衛門尉景春の三代あとに六郎次郎景孝という者がいて、天正年間、深井村で出生し在名を以て深井と称し、その子対馬守景吉が太田氏資に従ったが、氏資討死後は土着し、この地方の開発に精を出したと伝えている。(第四章参考資料「記録・系図等」の項参照)この対馬守が居館した館は、堀之内であったかのように、『新編武蔵風土記稿』では書いているが、いずれにしても寿命院の境内には、室町時代の板碑も二十枚以上も存在することを考えれば、対馬屋敷がこの付近にあったと考えるのが自然であろう。

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